失ったものを受け入れ、前進する富岡高校=震災から芽生えた確固たる意思
突然の激しい揺れ、町全体に出た避難警報
富岡高校の佐藤監督は事態が悪化する中、「サッカーのことなんか考えられなかった」と当時を振り返った 【安藤隆人】
14時46分、富岡高校のグラウンドは、突如激しい揺れに見舞われた。
「揺れがすごかった。横に揺れるし、激しくて立っていられなかった」(佐藤監督)
長い揺れの後、佐藤監督はすぐに生徒たちをグラウンドに避難させると、余震と津波警報を知らせる町内アナウンスに困惑した。
「揺れから30分後に、町の放送で大津波警報が出たと言われても、正直ピンとこなかった。でも、1時間後に津波が来たという情報が入って、うちの高校は高台にあるので、多くの人が車などで避難してきた。その数は300人くらいでした。でも、どうなっているか分からない中で、急遽グラウンドを駐車場にして、避難してきた人たちを比較的無事だった建物に誘導していた」
困惑する現場。わけも分からぬまま、押し寄せてくる避難者と生徒たちの安全の確保に奔走した。停電もあり、情報が入ってこない中、佐藤監督はラジオと車のテレビから徐々に現状を把握していった。
「只事ではないことが分かりました。その日の夜は、サッカー部とバドミントン部の生徒を一度寮に戻したのですが、翌朝の7時に富岡町全体に避難警報が出たんです」
ここから事態は予想をはるかに超えるスピードで悪化していく。震災と津波で、福島第一原子力発電所の事故が発生。富岡高校は緊急避難区域である半径10キロ圏内に位置していたのだ。生徒たちは佐藤監督が運転するサッカー部のマイクロバスやほかの先生たちが運転する車に乗り込んで、半径20キロ圏内の川内村に避難した。
「正直、緊急避難なので、2、3日、もしくは1週間で戻れると思っていたので、何も持たずに避難したんです。でも、その日の夕方のテレビで原発の現状を知って、これはとにかくここからも避難しないといけないと感じたんです」
「正直、サッカーのことなんか考えられなかった」
「もう正直、サッカーのことなんか考えられなかった。郡山北(工業)高校の体育館をお借りして、避難して、安否の確認を優先して、そこでだいたいの家庭が避難所、県外に避難していたので、そこから3月いっぱいまで家族と連絡が取れない生徒もいて、本当に大変だった」
その中で悲しい出来事もあった。入部予定だった当時中学3年生の選手1人が津波に流され、いまだに行方不明のままだという。
「練習に何度も来ていた選手で、一緒に頑張っていきたい選手だった」と、佐藤監督は唇をかんだが、さらに深刻な問題が生じた。
「3月末にようやく今後の学校の方向性が決まりました。サッカー部、バドミントン部、ゴルフ部は継続して強化していこうという話になって、この3つは絶対になくさないという方向性になった。じゃあ、どうやって活動しようかと。グラウンド、寮に代わる施設がないと選手が戻って来れないので、われわれの希望を学校に聞いてもらって、福島市の十六沼運動公園内にある人工芝のピッチ2面をお借りでき、選手たちは近くの福島北高校の校舎に通い、寮は飯塚温泉の旅館の一部をお借りすることができた。これが決まってから選手全員に連絡を取って、方向性を伝えて、意思確認をした」