カペッロ最後のとき
15シーズンで14のタイトルを獲得した監督であっても、イングランド代表での失敗により、多くのファンとジャーナリストから疑われるようになっている。特にタブロイド紙の攻撃は鋭さを増し、南アフリカでドイツに1−4の完敗を喫すると、「イングランドに未来はあるか?」との見出しがついた。9カ月後、その答えはイエスと出たように思える。カペッロは相変わらず大衆紙から“無能”“アホ”と呼ばれ続けているけれども。
そもそも、南アフリカでイングランドに何が起こったのか、カペッロは的確に把握しているのだろうか。カペッロによれば、敗因は主に2つ。どちらも彼の責任ではない。
第一には、W杯に臨むコンディションが十分でなかった。選手たちはシーズンを戦って疲労し切っていた。第二はレフェリーの誤審によって、ドイツに2−2に追いつく機会を失った。もし2−2でハーフタイムを迎えていれば、試合は全く違ったものになっていたというのが監督の見解である。一方、GKの問題やチームのアイデンティティーの欠如については触れていない。なぜなら、彼はただ勝利しか経験していない監督でもなければ、メディアとのタフな関係を知らない監督でもないからだ。
レアル・マドリーの監督として、カペッロは2回(1996−97、2006−07)リーグ優勝を成し遂げたにもかかわらず、常にメディアから批判されていた。目撃者の1人であるイバン・エルゲラによれば、批判は的外れだったという。メディアのプレッシャーがカペッロの勝利を妨げることはなかった。ミラン、ユベントス、ローマでも同じだった。そうした実績があるからこそ、FA(イングランドサッカー協会)はW杯後の2年、高給取りの監督を継続することに決めたのだ。
ピッチ上でも、それは同じだ。練習ゲームを始めて数秒後にゲームを止め、選手をつかんでポジションを移動させ、ポジショニングの間違いを指摘する。たくさんのビデオを駆使してディテールを解説し、選手が正しく動いていないことを指摘するために数カ月も前のシーンを持ち出してくることもある。こうしたやり方はスター選手の反発を招きやすい。
92年、ミラン時代のウディネーゼ戦では、バスでウディネに向かう時、「ルート・フリットはプレーするつもりがないのでバスに乗るべきでない」と、カペッロはスタッフに言わせた。対立しそうになったのはフリットだけでない。カペッロは常にこういうやり方をしていたという。グループを尊重させるため、意図的に選手との対立を作るのだが、事が収まれば対立感情を5分で忘れてしまう。
こうした厳格さは彼の生い立ちに関係がある。故郷のイタリア北部フリウリの人々はタフさとまじめさでよく知られている。
94年、ミランはトヨタカップ(現クラブW杯)でベレス・サルスフィエルドと対戦するために東京へ赴いた。日本に着くと、カペッロはスタッフからデヤン・サビチェビッチが出場停止のためにプレーできないと聞いた。そこで、カペッロはラドチョウの起用を決め、本人にも伝えた。ところが、サビチェビッチの出場停止はUEFA(欧州サッカー連盟)の大会だけに適用され、FIFA(国際サッカー連盟)の管轄であるトヨタカップは関係ないことが分かった。当時、サビチェビッチは世界最高の選手の1人であり、ミランのエースだったのだが、カペッロはサビチェビッチを起用しなかった。ラドチョウとの約束を守ったのだ。ミランはベレスに敗れてしまったので、監督の判断が良かったかどうかは微妙だが。
アッリーゴ・サッキ監督の後を継いでミランを率いた時、カペッロはプレスを以前ほど高い位置で行わなくなった。守備のタスクを軽減し、攻撃に余力を残す方策は成功し、セリエA3連覇やチャンピオンズリーグ優勝をもたらした。ただ、あまりユニークな戦術を用いることはない。カペッロの方針は、手持ちの選手たちの能力を最大限に発揮させることだけだ。ラスト20メートルまでは組織を重視し、ゴール前では選手のタレントを生かす。手堅い戦術だが、それもあと1年だ。カペッロは2012年に引退すると発表している。「何があってもそうする」と言っているのだから、間違いなくそうなのだ。
<了>
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