史上最高の名手? “マジコ”ホルヘ・ゴンサーレス
サッカー強国に生まれなかった選手が伝説になるには、たぶん倍の労力が必要になる。中米のエルサルバドルは、典型的な“サッカー小国”だ。ゴンサーレスがプロサッカー界に身を置いたとき、エルサルバドルはまだ一度しかワールドカップ(W杯)に出たことがなかった。出場した70年のW杯・メキシコ大会も3戦全敗、1ゴールも挙げられなかった。
貧しい家庭に生まれたゴンサーレスは17歳でプロになった。電話公社のチームだった。19歳で1部リーグのFAS(フットボリスタス・アソシアドス・サンタネコ)にスカウトされている。このころから、メディアはゴンサーレスを“エル・マーゴ”(マンドレーク=魔法の実と言われる植物)と呼ぶようになる。その飛び抜けたテクニックによってだ。
ゴンサーレスの才能によって、エルサルバドルは82年のW杯・スペイン大会に2度目の出場を果たすことができた。大会数カ月前、メキシコのDFの間をスラロームで抜いていったゴンサーレスの姿はファンの眼に焼き付いていた。しかし、エルサルバドルは初戦のハンガリー戦で1−10と大敗してしまう。これは大会記録だった。
だが、この惨敗にもかかわらず、“マーゴ”は何とこの試合のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれている。続くベルギー、アルゼンチンとの試合でもエルサルバドルは連敗。ゴンサーレスはペレやクライフと違って、W杯ではノーゴールに終わっている。しかし、ゴンサーレスは大会のベストイレブンに選出された。2トップは彼と、得点王になったパオロ・ロッシ(イタリア)だった。
バルセロナがマラドーナを獲得したのを受けて、アトレティコ・マドリーはゴンサーレスとの契約を進めたが、彼が選んだのはカディスだった。カディスに到着したゴンサーレスはファンを驚かせた。服装があまりにも垢抜けなかったからだ。しかし、ひとたびボールに触れれば、そんなことはもうどうでも良かった。カディスの監督だったダビド・ビダルは、「彼は、われわれの指と同じ感覚を足に有している。タバコの箱をリフティングしていたよ」とそのテクニックを称賛している。 しかし、ゴンサーレスはサッカークラブよりも夜のクラブを愛していた。彼自身も認めている。「オレは聖者じゃない。それは認めるし、夜も大好きだ。プロとしては良くなかったし、選手生活を縮めたことも否定しない。けれども、もともとサッカーを職業だとは思っていなかったんだ。楽しみのためだけにプレーしていた」。
バルセロナには、マジコの支持者であるマラドーナがいただけでなく、マジコに興味を持つメノッティ監督もいた。バルサ相手に0−3で折り返した後半、ゴンサーレスの2得点2アシストでカディスが4−3の逆転勝利を収めた試合後、バルサは米国遠征に彼を帯同させることにした。フルミネンセとの親善試合ではマラドーナが1ゴール、マジコは2ゴールを決めた。ブラジル人は、報復としてバルサが宿泊していたホテルの非常ベルを鳴らした。バルサの選手は全員がロビーに降りてきたが、ただ1人、マジコだけが部屋に娼婦とともに残っていた。この一件でバルサはマジコとの契約をやめ、彼が世界に名を轟かせる機会も失われた。
ただ、彼自身にとって、そんなことはどうでも良かったようだ。カディスでの生活に満足していた。街の有名人で、一張羅の革ジャン姿を知らない者はいなかった。金にはほとんど興味を示さず、路上で物ごいをされればすぐにあげていた。有名なジプシーのギタリストと友人になり、相変わらずナイトクラブ通いを続けた。監督はマジコをスタメンで起用しなくなり、84年にクラブは移籍させようとしたが、マジコは承諾しなかった。プレーしなくてもカディスでの生活を望んだのだ。
次のシーズン、ようやくバリャドリーへの移籍を承諾したが、そこでは9試合しかプレーしていない。カディスのファンはクラブに圧力をかけ、マジコを買い戻させた。会長はファンの意向をのんだが、給料は試合に出場したときだけの日払いにした。マジコの生活を改善するため、クラブはエルサルバドルから両親を呼び寄せた。しかし、彼は両親が到着してから2週間も音さたなしであった。
マジコは91年にエルサルバドルへ戻り、古巣のFASと契約。00年までプレーしている。結局、42歳まで現役だった。その後、アシスタントコーチとして米国MLS(メジャーリーグサッカー)のディナモ・ヒューストンに就職したが、すぐに退屈してしまい、タクシーの運転手に転職してしまった。現在、マジコはエルサルバドルに戻っている。そして、長年の夢だったバーのオーナーに収まっているそうだ。
<了>
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