ロナウドよ永遠に

 引退表明から1カ月が経った。サッカー史上、最も偉大な選手の1人であるロナウドの業績を振り返ってみるのは、無駄ではないだろう。1993年のクルゼイロでのデビューからコリンチャンスでの最後の試合まで、20年間近くにおよぶ栄光のキャリアとは何だったのか。

1994年5月4日
 最初のインターナショナルマッチでの得点は、アイスランドが相手だった。さほど素晴らしい試合でもなく、ワールドカップ(W杯)の決勝でもない。しかし、ロナウドの早熟さの証明であった。14カ月前、彼はクルゼイロの下部組織でプレーを始めたばかりだった。16歳のロナウドは、最初の試合で2ゴールを決め、同年の7月7日にはトップチームでデビュー。11月にはバイーア戦で5得点(クルゼイロは6−0の勝利)。年が変わって94年3月、アルゼンチン戦で初の代表キャップを刻む。そして7月には世界チャンピオンになっていた。米国で開催されたW杯では1分もプレーしなかったが、それでも世界王者の一員であることに変わりはない。

1996年12月12日
 スペインリーグ第7節コンポステーラ戦、試合自体はコンポステーラにとってもバルセロナにとっても、さほど重要なものではない。しかし、このゲームでロナウドは、おそらく彼のキャリアの中でも最も驚異的なゴールを決めた。当時、コンポステラの監督だったフェルナンド・バスケスの「われわれはまったくもって子供扱いされた」とコメントしている。ロナウドは60メートルを突っ走り、その間、ユニホームをつかんだ敵を引きずり、振りほどき、ほぼ全員のDFを抜き去ってゴールしたのだ。

1998年5月6日
 UEFAカップ決勝、インテル対ラツィオ。そのときトップレベルにあったロナウドは、信じ難い身体能力とスキルで1ゴールをゲットしている。左サイドでアルメイダとゴッタルディがロナウドを射程距離に置いたとき、「フィノメノ(怪物)」はアウトサイド、インサイドをワンアクションで使うテクニックを披露する。のちに“エラシコ”として有名になったフェイント。彼がただのフィジカル・モンスターでないことを証明したアクションだった。インテルのチームメートだったファビオ・ガランテによると、ロナウドは試合前のアップでいろいろな妙技に挑戦してたが、ことごとく成功していたという。

1998年7月12日
 W杯決勝の6時間前、ロナウドはロベルト・カルロスと同じ部屋にいた。ロベルト・カルロスが休息しようとすると、ルームメートがけいれんし始めた。ロベルト・カルロスはドアを開けて、廊下にいたエジムンドを呼ぶ。エジムンドは部屋に入ると「ロナウドが死んでしまう!」と悲鳴を上げた。しかし病院での検査を終えると、ロナウドは決勝に出場し、ブラジルはフランスに敗れた。13年後の現在も、彼に何が起こったのかは解明されていない。そしてなぜ、好調だったエジムンドが代わりにプレーしなかったのかも。ナイキ社が広告的な理由で、ロナウドをプレーさせるようにブラジル代表スタッフに圧力をかけたとも言われているが――。
2000年4月12日
 またもラツィオ対インテル、イタリアカップ決勝の第1戦。5カ月前、ロナウドはひざに重傷を負っていた。長いリハビリの後、彼はベンチに座った。57分、マルチェロ・リッピ監督はロナウドをピッチに送り出す。最初のコンタクトでフェルナンド・コウトが激しく当たり、その7分後、加速したロナウドがバッタリと倒れた。インテルのベノワ・コウエは当時の記憶についてこう語る。
「3分間、ピッチとスタンドは静まり返ってしまった。スタンドからはすすり泣きも聞こえてきた。皆がそのとき感じていたのは、世界最高のプレーヤーが終わってしまった瞬間を見たということだった」

2002年6月30日
 ドイツ代表の守護神、オリバー・カーンが守るゴールへの2つのゴールで、ロナウドは2度目の世界チャンピオンとなった。1994年と違い、このW杯・日韓大会では、チームの中心として8得点を記録した。長いリハビリを経ての復活劇。ただし、復活にあたってロナウドはプレースタイルを大きく変化させている。長距離をパワフルに走るのではなく、ある種“ブラジルのインザーギ”になっていたのだ。常に良いポジションをとり、チームメートのアクションをゴールに変えるスタイルに。それによって、彼は負傷と身体的な変化(違う言い方をすると「肥満化」)に対応していったのだ。

2002年8月31日
 ロナウドのレアル・マドリーへの移籍が、インテルのウェブサイトで発表されたのは午後11時25分だった。だが深夜にもかかわらず、数名のファンはインテルの事務所に出向いてロナウドの名をコールした。数カ月にわたり、インテルは負傷した選手の回復のために給料を払ってきた。マッシモ・モラッティ会長も日々、リカバリーの過程に関与していた。しかしロナウドは、契約にあたって“心”を重んじることはないようだ。何しろインテルとミラン、バルセロナとレアル・マドリー、フラメンゴとコリンチャンスでプレーしたのだから。

2006年6月
 ドイツW杯に臨むロナウドの体重は95キロ。デビュー時より20キロも増えていた。前回02年大会からも10キロ増。ニックネームも「フィノメノ」から「エル・ゴルド(デブ)」に。ビールとバーベキューと甘い物が大好き。レアル・マドリーの選手たちがよく出入りするレストランのオーナーは、その大食漢ぶりを今も覚えている。

 コリンチャンスでの最後のシーズンには、体重オーバーでほとんど走れなかった。ロナウドがトップフォームのとき、どんなにハイレベルであるかは誰もが知っている。しかし、その能力を発揮することなくプレーしていた期間は、実に10年におよんだ。

<了>
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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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