中村俊輔の輝き続ける才気とその行方=W杯での失意乗り越え、再び光放つ

小宮良之

スペイン人指揮官との出会いから始まった物語

古巣のユニホームをまとった中村は一時期の不振を乗り越え、輝きを放っている 【写真:アフロ】

 2010年10月31日、三ツ沢競技場にサンフレッチェ広島を迎えた横浜F・マリノスは、2−1で勝利を収めている。攻撃のエースは、トップ下に入った背番号25だった。1点目も2点目も起点は彼がサイドに展開したパス。左足で放たれたパスは標的を追尾する高性能弾のように敵の心中を震え上がらせた。ジダン(元フランス代表MF)が得意としたマルセイユルーレットで相手DFを軽やかに振り切ると、スタンドが低くうなった。

 三色のユニホームを着た中村俊輔は、心を躍らすような輝きを放っていた――。

「ナカムラが放ち始めていた光はまぶしかった。日々、成長が楽しみでね。彼のような選手に巡り会えることが、指導者としての喜びなんだ」

 1997年から2シーズンにわたって横浜マリノス(当時)を率いたハビエル・アスカルゴルタは、このように振り返っている。スペイン人監督は当時、元スペイン代表MFの移籍話を取りやめてまで、1人の高校生ルーキーの輝きにかけた。

「左足1本で簡単にチャンスを創り出した。それは見事だったよ」と懐かしげに恩師は語るが、日本サッカーを代表するレフティーの物語は、その才能の輝きを信じ切れる指揮官との遭遇から始まった。

日本サッカー界を照らした輝き、作り上げられていったイメージ

 プロ1年目の97年に強豪マリノスのレギュラーポジションをつかみ、Jリーグ優秀新人賞を受賞。プロ2年目には10代ながら飛び級でA代表の練習に参加し、プロ3年目でJリーグベストイレブンに選出され、4年目でJリーグ最優秀選手に輝いた。体格に恵まれなかったことでユースにすら昇格できなかった少年は、広い視野と技術力を武器に誰の目もくらませる才能のほとばしりを見せるようになった。

 その後は2002年の日韓ワールドカップ(W杯)落選やセリエA挑戦での苦しみなど挫折を経験。ボールを受けてからスローダウンするプレーが批判されたり、運動量の少なさが指摘されることもあった。しかし、得意の左足FKは伝家の宝刀という表現が似つかわしく、“秘密兵器”の風情が日本人を興奮させ、セルティックではチャンピオンズリーグで2年連続ベスト16に進出した。

 その輝きは日本サッカー界全体を煌々(こうこう)と照らすことになった。

 しかし、風ぼうはおよそアスリートらしくない。表情は快活さよりも陰鬱(いんうつ)さを多く含み、フットボールを熱心に語ることを厭(いと)わないものの、その口調は訥々(とつとつ)としてどこか物憂げに映る。元日本代表監督のトルシエがベンチで髪の毛をぼーっといじっている中村の姿を見た折、「この選手は戦いに向かない」と確信し、その後代表メンバーから外した逸話が残っているほどだ。

 他を凌駕(りょうが)する才能はいつの間にかもろさを同居させた。

 だが、そのキャラクターは本人が好むと好まざるにかかわらず、テレビや雑誌などマスコミを通じて世間に伝えられ、不思議なことに挫折や悲壮感までが魅力のひとつになった。それはスター選手の宿命なのかもしれないが、中村とその周囲は特定のインタビュアーを好んだこともあり、その肖像はしばしば“都合よく”脚色され、イメージが作り上げられていった。

「サッカー選手は公私ともにサッカー選手でなければならない。ピッチで闘争する姿がすべて。美しく作られたイメージなど邪魔だ」

 選手時代から闘将の誉れ高きホセ・アントニオ・カマーチョの言葉である。

 はたして、まとったイメージは中村の幸運だったのか、不運だったのか。

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著者プロフィール

1972年、横浜市生まれ。2001年からバルセロナに渡り、スポーツライターとして活躍。トリノ五輪、ドイツW杯などを取材後、06年から日本に拠点を移し、人物ノンフィクション中心の執筆活動を展開する。主な著書に『RUN』(ダイヤモンド社)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)、『名将への挑戦状』(東邦出版)、『ロスタイムに奇跡を』(角川書店)などがある。

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