中村俊輔の輝き続ける才気とその行方=W杯での失意乗り越え、再び光放つ
スペイン人指揮官との出会いから始まった物語
古巣のユニホームをまとった中村は一時期の不振を乗り越え、輝きを放っている 【写真:アフロ】
三色のユニホームを着た中村俊輔は、心を躍らすような輝きを放っていた――。
「ナカムラが放ち始めていた光はまぶしかった。日々、成長が楽しみでね。彼のような選手に巡り会えることが、指導者としての喜びなんだ」
1997年から2シーズンにわたって横浜マリノス(当時)を率いたハビエル・アスカルゴルタは、このように振り返っている。スペイン人監督は当時、元スペイン代表MFの移籍話を取りやめてまで、1人の高校生ルーキーの輝きにかけた。
「左足1本で簡単にチャンスを創り出した。それは見事だったよ」と懐かしげに恩師は語るが、日本サッカーを代表するレフティーの物語は、その才能の輝きを信じ切れる指揮官との遭遇から始まった。
日本サッカー界を照らした輝き、作り上げられていったイメージ
その後は2002年の日韓ワールドカップ(W杯)落選やセリエA挑戦での苦しみなど挫折を経験。ボールを受けてからスローダウンするプレーが批判されたり、運動量の少なさが指摘されることもあった。しかし、得意の左足FKは伝家の宝刀という表現が似つかわしく、“秘密兵器”の風情が日本人を興奮させ、セルティックではチャンピオンズリーグで2年連続ベスト16に進出した。
その輝きは日本サッカー界全体を煌々(こうこう)と照らすことになった。
しかし、風ぼうはおよそアスリートらしくない。表情は快活さよりも陰鬱(いんうつ)さを多く含み、フットボールを熱心に語ることを厭(いと)わないものの、その口調は訥々(とつとつ)としてどこか物憂げに映る。元日本代表監督のトルシエがベンチで髪の毛をぼーっといじっている中村の姿を見た折、「この選手は戦いに向かない」と確信し、その後代表メンバーから外した逸話が残っているほどだ。
他を凌駕(りょうが)する才能はいつの間にかもろさを同居させた。
だが、そのキャラクターは本人が好むと好まざるにかかわらず、テレビや雑誌などマスコミを通じて世間に伝えられ、不思議なことに挫折や悲壮感までが魅力のひとつになった。それはスター選手の宿命なのかもしれないが、中村とその周囲は特定のインタビュアーを好んだこともあり、その肖像はしばしば“都合よく”脚色され、イメージが作り上げられていった。
「サッカー選手は公私ともにサッカー選手でなければならない。ピッチで闘争する姿がすべて。美しく作られたイメージなど邪魔だ」
選手時代から闘将の誉れ高きホセ・アントニオ・カマーチョの言葉である。
はたして、まとったイメージは中村の幸運だったのか、不運だったのか。