厳しい航海に乗り出した新生レ・ブルー=船長ローラン・ブランとともに

木村かや子

課題の消えないもろいディフェンス

選手に指示を送るブラン監督(奥)。新生フランス代表は新たな道を歩み始めた 【Photo:ロイター/アフロ】

 もっとも、後半にフランスが得点したという事実とは裏腹に、組織力という面でより統制がとれていたのは前半の4−4−2の方だった。そのことは、ブラン自身が試合後「前半のシステムの方が、ノルウェーをより苦しめていた」と遠回しに認めている。後半、ブランはおそらくより多くの選手を試すため、前半何度もゴールを脅かした(が、決め損ねた)レミー、中盤のひし形の両端であるムサ・シソコとエヌゾグビアを下げ、ベンアルファを右サイド、ジェレミー・メネスを左サイド、W杯に呼ばれたが病気のため棄権した守備的なラサナ・ディアラをエムビラの横に入れ、FWをオアローだけにした4−2−3−1に移行した。

 後半1分にベンアルファが独力で打開し、先制したまでは良かった。ところがその後は、前半ほど印象的ではなかったのである。ベンアルファ、また特にややボールを持ち過ぎたメネスがドリブルで中央に切り込むために、攻めが中央に偏り、前半に見られた「サイドと中央の両方から攻める」攻撃の多彩さが消滅。組織的にはやや支離滅裂になったきらいがある。

 一方、未成年買春事件への関与で法廷に証人喚問され、招集が疑問視されていたカリム・ベンゼマは、ゴールへのどん欲さという面ではピカ一のはずだったが、コンディションが良くないということで、このノルウェー戦では後半に途中出場。やはり心身共にさえない様子で、これといったインパクトもほかの選手たちに匹敵する意欲も見せられないまま不完全燃焼で終わった。

 しかし最たる問題は、面子を入れ替えてもやはり弱さが目立ったディフェンス陣だろう。前半から、メクセスと、リールのアディル・ラミのセンターバックペアには意思疎通の問題が見えていた。その後、Aチームの主力だったラサナ・ディアラの投入で、より堅固さが生まれるかと思いきや、皮肉にもフランスの2失点目は、ピッチ中央でボヤッとしていてパスを受け損ね、ボールを奪われたディアラのミスからだった。
 ブランは、自分同様、守れるだけでなくボールを奪ってからそれを賢く使って攻撃に切り替えられるDFを好んでおり、今回抜てきされたメクセスもラミも、そのような性向を持つ選手である。しかし、守備の堅固さ、ぬかりのなさという面で、フランスのディフェンス陣はどうも心もとない。急造ペアに意思疎通のミスが出たのは仕方ないとして、彼らを、今回外れたいわゆる“主力”と置き換えたり混ぜたりしても、不安が残ることに変わりはないのだ。

 不動であることが理想のセンターバックコンビには、1試合の中で変わることに慣れた攻撃のタンデム以上に、多くの試合を共に戦うことで培われる相互理解が必要だ。ブランを待つ重要なタスクの1つは、できるだけ早く要のセンターバックペアを決め、めまぐるしく組み合わせを変えたことで選手の自信さえ奪ったドメネクと同じミスを、繰り返さないようにすることだろう。

 結果論だが、W杯に参加しなかったとはいえ、ベンゼマ、ラサナ・ディアラとドメネクのチームの陰を引きずる代表経験豊富な2人がさえなかったのは、やや暗示的だ。しかし、ブランは「ベンゼマはこのチームの核となり得る重要な選手」と言い、彼の才能に絶大な信頼を授けている。その一方で、たとえ経験面で主力に及ばなくても、チームプレーに徹する謙虚さと溢れる意欲を見せた新顔たちの奮闘ぶりは、サッカーにおける精神姿勢の重要さを映し出していた。

ブランには目指すスタイルがある

 重要な監督のさい配能力に関しては、まだ評価するには時期尚早とはいえ、ドメネクが6年の在位期間にできなかった「フランスにチームカラーを与える」という任務において、ブランはすでに一歩を踏み出したように見える。ボルドー監督時代の彼は、ややフィジカルに偏りがちなリーグ1にあって、「ボールをプレーするサッカー」、つまりパスを使ってプレーを建設するサッカーを目指した。彼は代表でも同様に、堅固な後衛から常に意図のあるボール活用に努め、ボールを地に着け、パスでプレーを築いていくサッカーをしろと選手たちに指示。長身のノルウェー相手だけに定石通りの指示だが、これはブランの基本方針でもあるようだ。

 2009年、ブラン率いるボルドーは、個々の選手の力ではリヨンに劣りながらも、堅固かつチームワークの良さでフランス王座をつかんだ。ブランの理想はディフェンスがプレー建設の発進点になることであり、中盤は攻守に貢献しつつ前を目指してプレーを創造し、FWは作られたチャンスをどん欲に決めにいく。つまり、それを実現できるかどうかは別として、基本的方向性は、すでに見えているのだ。

 また試合後のブランは、そこで見た“興味深いポテンシャル”に触れながらも、率直に敗戦を悔しがった。「勝つために準備して臨んだので、成績面で目標を果たすことはできなかった」――どうということはないセリフだが、「これは準備試合にすぎない」「重要なのは次の試合」といったドメネクの言い訳を聞き慣れていた者にとって、事実を事実と認めるブランの言葉は新鮮だった。

 とはいえ、不安がないわけではない。監督としての経験がボルドーでの3年間に限られるため、ブランにはボルドーのやり方をコピーする傾向があり、この試合前には192センチと長身のオアローを盛んにボルドーのシャマクと比較して、前方にターゲットマンとなるFWを置きたいとしているところを見せた。このオアローは、初舞台で遠慮がちになったか、シャマクほどどん欲にゴールを奪いにいかず、自分で得点を狙うべき場面でパスしてしまうなど、国際舞台での経験不足を垣間見せた。これが単なる経験不足によるものか、格不足なのかの判断は、今後の彼の奮闘ぶりによる。そしてブランのチーム構成能力に関しても、能力が問われるのはこれからだ。

若手の才能から差す希望の光

 いずれにせよ、この試合で今さらのように気づかされたのは、よくよく見ればフランスは、特に中盤から前線にかけ、多くの才能ある若手を擁している、ということである。彼らが未完のホープのまま終わるか、偉大な選手に飛躍するかは未知数だが、可能性の芽はそこにある。W杯後、フランス国内は、自らを過大評価していたフランス代表は地に落ち、暗黒の時代に突入したという悲観論に支配されていた。しかしこれら若手の存在は、暗闇の中に見える、希望の光にほかならない。

 特に今、04年のU−17欧州選手権・決勝でスペインを破って優勝を遂げ、第二の黄金世代と期待をかけられた1987年生まれの選手たち、すなわちベンゼマ、ベンアルファ、ナスリ、メネスらが欧州の舞台で経験を積み、力を発揮し始めている。ユーロ2012時には25歳、次のW杯時には27歳になっているこれら若い選手たちの力をどのように引き出し、どのように活用していくか。これはブランが直面する難しくもやりがいのあるテーマの1つであるように思える。

 ドメネク前監督は04年、これらの大器たちが幼すぎる時に、まだ力のあったベテランたちを退けて急激な世代交代をしようと試み、失敗。06年からの4年間、世代交代に取り組み始めるべきだった時期には、ベテラン頼みに逆戻りし、新チーム建設のタイミングをことごとく外していた。今、ブランは、フランク・リベリー、フローラン・マルーダら世界的名声を誇る成熟した主力選手と、これら若い才能をうまく配合して新時代のチームを築くという、楽しくも一筋縄ではいかない任務に取り掛かろうとしている。

 ブランを気遣う旧友のデシャンや、多くの元選手、関係者たちは、現フランス代表の状態を、“シャンティエ”(工事現場)という言葉で表現し、98年代表監督のエメ・ジャケは「今回のW杯の汚名をそそぐには長い年月が必要とされるだろう」と嘆いた。しかし、痛い思いをしたおかげで、目を覚まし方向を正す機会が与えられたという見方もできる。
 南アでのニコラ・アネルカの暴言には、憶測されていたような秘密はなかった。アネルカは、セカンドアタッカーである自分をセンターFWの位置にくぎ付けしようとするドメネクの指示を前に、積もり積もったフラストレーションを爆発させた。リベリーのグルクフいじめのうわさもあったが、育ちも世代も違う23人が集まれば、どの代表にも多少の性格の不一致はあるはず。小さなヒビが過剰に誇張されてしまった感のある南アでの茶番劇は、行き先の見えない船に乗り、負けを重ねたためにはまった負の連鎖の産物だったのかもしれない。

 そこから抜け出すには、今、勝利が必要だ。考えてみればブランの監督歴はわずか3年。監督自身の可能性も未知数ではあるが、ブランには、2010年夏までのフランス代表に痛いほど欠けていた、チームに方向性を示す能力、また一流選手としてのそのキャリアゆえ、選手の敬意を促す格と、わがままを言わせない強さがある。いい大人とはいえ、チームは生徒の集団のようなもの。行き先を示すリーダーがいなければバラバラになり、漂流もするだろう。もはや誰も「栄光をもう一度」とは言っていない。航路はいまだ霧に包まれている。しかしローラン・ブランなら、この迷える代表を導く船長になれるはずだ。少なくともそれが、皆が期待していることなのである

<了>

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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