2002年のインパクトをもう一度=W杯招致アンバサダー、宮本恒靖インタビュー(前編)

宇都宮徹壱

22年招致アンバサダーを務める神戸の宮本恒靖がW杯についてインタビューに応じた 【宇都宮徹壱】

「招致アンバサダー」というポストをご存じだろうか。2022年ワールドカップ(W杯)開催を目指す日本サッカー協会は、日本サッカー界を代表し、招致活動に協力する現役Jリーガーとして、中山雅史(コンサドーレ札幌)、藤田俊哉(ロアッソ熊本)、そして宮本恒靖(ヴィッセル神戸)の3名にまず白羽の矢を立てた。このうち、最多2回の本大会出場を経験しているのが、現在33歳の宮本である。
 宮本といえば、自国開催の2002年大会では黒いフェースガードの「バットマン」として脚光を浴び、そして前回の06年大会ではキャプテンとしての重責を担ってきた。今では想像できないくらい、日本代表とW杯に国民的な熱い注目が注がれていた時代。そこにはいつも、腕章を巻いてチームを統率する宮本の姿があった。
 W杯イヤーに招致アンバサダーというポストを任命された宮本は現在、夢の舞台にどのような感情を抱いているのだろうか。(取材日:5月17日 インタビュアー:宇都宮徹壱)

最初に記憶に残っている大会は86年大会

――宮本さんがW杯招致アンバサダーに就任されたことについて、実は当初、いささかの違和感を覚えたことがありました。というのも、こういうお仕事は現役を引退された方がやるものというイメージがあったからです。実際のところ、このお話を最初に受けた時、どのように思われましたか?

 光栄というか、責任もあるだろうし、やりがいのある仕事だと思いました。現役だからそういう仕事を受けないというのではなくて、自分もW杯に参加した経験がありますから、そういったものを何かしら生かすことができるのかなと思いました。

――それだけW杯という存在自体が、宮本さんにとって非常に大きなものであるということですね。では初めてW杯を意識したのは、いつの大会でしょうか?

 86年(メキシコ大会)が最初です。9歳だったんですが、映像は覚えています。ちょうどVHSビデオの普及が始まったころで、父親がそれを買ってきて(試合を)撮ってもらって見ました。父親はサッカー好きというわけではなかったんですが、NHKスペシャルのような自分の趣味の番組を撮るために買ってきたんだと思います。

――やはり、最も夢中になったのはマラドーナですか?

 そうですね。マラドーナを見て衝撃を受けたのと、あとマラドーナのポスターを貼っていたこともありましたね。サッカーを始めたころは、ああいう攻撃的なポジションの選手になりたいと思っていましたから。スターでしたし。

――その後、ガンバの下部組織に入ってからは、よりプロを意識しながらW杯をご覧になっていたと思うのですが

 90年(イタリア大会)は、ピクシー(ストイコビッチ)を見ていました。もちろんマラドーナも。準決勝はナポリでイタリアと対戦して、(当時ナポリに所属していた)マラドーナがブーイングを食らいながらプレーしているのを見ました。決勝戦では(西ドイツ代表の)ブレーメが(PKで普段あまり使わない)右足で蹴るのかと思ったのを覚えています。90年は中学校2年で、決勝は早起きして見ていたと思います。
 94年になると、個人というよりも戦術的なところを見るようになりました。(イタリア代表の)バレージが、けがをしながら決勝に戻ってきたのは印象に残っています。

日本中にインパクトを与えた02年大会

自国開催の02年大会で、宮本は黒いフェースガードの「バットマン」として脚光を浴びた 【Photo:PICS UNITED/AFLO】

――そのころには「自分があの場に立っていたら」というイメージはありましたか?

 それは全くないです。ただ86年の大会を見た翌年に、2002年のW杯招致が始まるということが新聞に載ったんですね。それを見て、父親に「日本でやったら見にいけるね」という話をしていました。自分がそこに出たいなんていうことは、全く最初は思っていなかったです。

――ほほう。招致の最初の段階から、意識されていたんですか?

 日本でやるんだっていうことは、メディアを通して知っていましたね。「やるんだ」というか、そういう方針が出ているということは。

――U−17の世界選手権(現U−17W杯)が93年に日本で行われ、宮本さんは中田英寿や松田直樹と出場されました。W杯とは違いますが、日本開催というところで、当時の招致活動ともリンクしていましたし、当時どこかで「日本で開催されるW杯」というのを意識しながらプレーをされていたのでしょうか?

 まだ遠い話でしたね、その時は。ただ、僕たちの活動しているジャージなんかに「2002 JAPAN」というのをつけながらプレーしていましたから、将来は日本でW杯が行われるんだ、という楽しみな気持ちはもちろんありました。もちろん高校生でしたから、世間がどういう期待をしているのかというのは、あまり気にも留めなかったです。それでもサッカー界、特にメディアは「この世代が2002年の中心になっていく」と取り上げてくれていましたから、そういうのは少し意識するようになりました。

――それから9年後、実際にW杯が日本で開催されて、宮本さんは国民的な話題の渦中に身を置くことになったわけです。大会そのものが、日本にものすごいインパクトを与えたわけですが、当時はそういった自覚はありましたか?

 そうですね。インパクトに関しては、僕たちチームはある程度隔離されていたので、特に初戦と第2戦が終わったくらいまでは、すごいムーブメントの中にいるというふうには思っていなかったです。
「あ、すごいな」と思ったのは(グループリーグ第3戦の)チュニジア戦を大阪で終えて、新幹線で帰る途中ですね。新大阪駅に向かう途中で(バスから)見た道頓堀あたりの光景が、本当にたくさんの人がいて。ユニホームを着ている人もたくさんいました。新大阪から掛川に戻ったんですが、こだまを使ったので停車駅ごとに人がたくさん押し掛けてきたりして、「これはすごいことになってるな」と思いましたね。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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