“闘将”荻野、“職人”津曲ら、男子バレーの守護神たちを紹介
昨年、全日本男子を16年ぶりの五輪出場へ導いた荻野。チームを鼓舞する姿から“闘将”とも呼ばれる 【Photo:YUTAKA/アフロスポーツ】
「リベロ」は1998年に守備専門のポジションとして正式に導入されたものだが、全日本にはもちろん、それ以前から安定感のある守備で名レシーバーと呼ばれてきた選手たちも数多く存在する。今回は、“全日本の守護神”として活躍した名レシーバー、名リベロを時代ごとに追っていきたい。
器用なプレーで全日本を沸かせた青山
高校卒業後、新日鐵(現堺)に入社した辻合は、70年代の新日鐵黄金時代を築いた一人。全日本では、77年ワールドカップのほか、翌78年の世界選手権などに出場した。引退後の91〜95年には、大古誠司監督政権下の全日本でコーチとして活躍し、92年のバルセロナ五輪6位入賞に貢献。その後、大古監督の意志を受け継ぎ、全日本男子監督となった。
90年代に活躍したのが青山繁。身長187センチと、アタッカーとしては決して大きくなかったが、相手のすきをつく時間差攻撃や巧みなスパイク、安定感のあるサーブレシーブで活躍した。
法政大在学中の90年世界選手権で全日本入りを果たした青山は、卒業後の92年に富士フイルムへ入団。1年目から、MVP、レシーブ賞、ベスト6賞の3冠を獲得するなど華々しく活躍した。全日本でも、同年バルセロナ五輪で6位入賞に貢献。さらに、95年のワールドカップでは、エースの中垣内祐一、南克幸らととともに、チームを5位に導いた。06年に現役引退した後、翌07年には功績が称えられて、Vリーグ栄誉賞、Vリーグ日本記録賞を受賞した。
男子のリベロ第1号の西村
リベロが正式導入された98年に全日本で第1号となったのが、西村晃一だ。高校、大学時代にアタッカーとして活躍した西村は、96年にNECホームエレクトロニクスに入社。1年で廃部という憂き目に遭ったが、NECブルーロケッツ(09年5月に休部)に移籍後はVリーグ、黒鷲旗で優勝を果たした。
その後、堅実なサーブレシーブが評価され、98年にリベロ第1号として全日本選出。同年の世界選手権ではベストディガ−賞を獲得し、翌99年のワールドカップでも、朝日健太郎、加藤陽一らとともに中心選手として活躍した。
02年にビーチバレーへ転向し、現在は同じく元全日本の今井啓介とペアを組み、16年ロンドン五輪を目指している。
4大会ぶりの五輪出場へ導いた“闘将”荻野
高校卒業後の88年にサントリーへ入団した荻野は、89年に全日本に初選出されると、めきめきと頭角を現し、92年バルセロナ五輪ではチーム主力として6位入賞に貢献した。98年以降は全日本から遠ざかったが、05年には4大会ぶりの五輪出場を目指すチームの主将として復帰。豊富な経験を生かし、若手主体のチームを五輪出場へ導いた。
試合中に大声で若手を鼓舞し、北京五輪出場決定直後に号泣した姿は、ファンから敬意を込めて“闘将”と呼ばれる。先日、09−10年シーズン限りでの現役引退を発表した。
北京五輪でリベロとして活躍したのが、津曲勝利だ。大学卒業後、病院に勤務するかたわら、三好循環器科EKG(現大分三好)でプレーしていたが、レシーブ力を買われて、リベロとしてサントリーに移籍。01年に全日本に初選出されると、安定感のあるサーブレシーブに加え、ブロックフォロー、こぼれ球をセッターにうまくつなぐプレーでチームに貢献した。
04年のアテネ五輪最終予選では出場権を逃したが、その悔しさをばねに、4年後の北京五輪最終予選では、見事に五輪切符を手にした。
<了>
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