韓国ユース世代、強さを支える新たな源泉=改革が実を結んだ育成強化の最新事情
U−20、U−17W杯で活躍した「2002年キッズ」
韓国はU−17W杯でアジア勢として唯一ベスト8に進出。3戦全敗の日本とは対照的な結果を残した 【Photo:Action Images/アフロ】
韓国では、彼らを「2002年キッズ」と呼んでいる。韓国代表がW杯ベスト4進出を成し遂げた当時、彼らは10歳〜13歳だった。その快挙に刺激を受けてサッカーを始めた選手も多く、また2002年W杯開催に前後して急増した天然芝のグラウンドなど、整備されたサッカー環境で育った選手が多いことから付いたニックネームだ。
彼らのプレーは、一本調子だったこれまでの韓国サッカーとは異なり、創造性にあふれテクニックもあると評価されているが、それは02年以降、パク・チソン(マンチェスター・ユナイテッド)ら欧州組の増加で、ヨーロッパの先進サッカーが身近になったことも関係しているだろう。
いずれにしても、2002年W杯の効果がカタチになっていることは間違いないが、長年韓国サッカーを取材してきた立場からすると、成功の要因はそれだけではないような気もする。というのも、韓国は今から10年前、ユース世代のサッカーの普及と育成強化の改革に乗り出しているのだ。
1999年。そう、小野伸二、稲本潤一らを擁して、日本がワールドユース(現U−20W杯)で準優勝した年だ。韓国にとって隣国・日本の躍進はまぶしく、うらやましく映った。前年のアジアユースでは日本を2度下した韓国が優勝したものの、肝心の世界大会で韓国はグループリーグ敗退。この明暗を分けた結果を受けて、韓国ではユース世代の育成強化が抜本的に見直されるようになったのである。
少数精鋭のエリート主義から抜本的な改革へ
サッカーが不人気だったわけではない。「わが国の国技はサッカー」と誰もが口にするほどサッカー人気は高く、“早朝蹴球(チョギ・チュック)と呼ばれる草サッカーや車範根(チャ・ボングン)ら引退した有名選手が運営する“サッカー教室”も盛んだった。ただ、当時のKFAは学校スポーツとして行われるサッカー活動しか協会登録を認めず、韓国のサッカー部の形態も特殊だった。
少数精鋭のエリート主義と徹底的なスパルタ指導がそれだ。別名“四強制度(サガン・チェド)と呼ばれる『体育特技者制度』とも無関係ではなかった。このシステムを簡単に説明すると、年に数回あるトーナメント方式の全国大会で好成績を残さねば、次に進学する学校、すなわちサッカー部がある学校にスポーツ特待生としてスカウトされないという韓国独自の選手選抜システム。つまり、サッカーを続けていくためには、進学のたびに好成績を残さねばならず、それだけに選手も指導者も勝利至上主義にならざるを得なかった。
そのため、技術や戦術知識の習得に多くの時間を割くよりも、手っ取り早く相手を圧倒できるスピードと体力の強化に主眼が置かれてきた。選手たちはそうした過酷な生存競争の中で、強靭(きょうじん)な体力、不屈の精神力、そしてここ一番での勝負強さといった韓国サッカーの伝統を心と体に染み込ませていくのである。
だが、少数精鋭主義は人材の固定化を招き、埋もれた原石も発掘しにくい。激しさばかりを追求したがために、スキルフルな選手が生まれにくい環境にもあった。実際、気力と体力の一本調子サッカーは、アジアでは勝てても世界の舞台では苦戦した。日本とは対照的な結果に終わった99年ワールドユースでその育成環境の弊害と限界を思い知らされたKFAは、抜本的な改革に乗り出したわけだ。