16強進出した都城商の転機=タジケンの甲子園リポート2009

田尻賢誉

九州大会直前に突然の監督交代

 突然の電話だった。
 4月のある日。開催されている九州大会に出場している高校の監督から電話をもらった。ところが、声のトーンがいつもと違う。そう思った瞬間、驚きの報告が待っていた。
「実は、4月から異動になったんです」
 思わず、声を失った。と同時に、その人事に怒りさえ覚えた。心境が痛いほど分かるだけに、かける言葉が見つからない。
 なぜ、ことしでなければいけなかったのか……。
 電話を切り、残ったのは、そんな思いだけだった。

 1981年に夏の甲子園に出場して以来、都城商高はすっかり低迷していた。部員数も減り、ついには8人。そんな野球部にやってきたのが、原田賢司監督だった。2000年に赴任。秋から監督になると、チームはみるみるうちに変貌する。夏の県大会は初年度の01年こそ初戦敗退に終わるが、02年ベスト4、03年準優勝、04年ベスト8、05年ベスト4、06年ベスト4、07年準優勝、08年2回戦。公立でありながら、県内の大会では勝率ナンバーワンを誇るチームになった。
 ことしは、ともに140キロの速球を投げる右の新西貴利、左の藤本雄也の2枚看板を中心に力のある選手がそろっている。28年ぶりの甲子園は射程圏内。それどころか、1月には原田監督から「本気で全国制覇を目指します」という言葉も聞いていた。
 ところが――。
 3月になり、異動の辞令が通達された。

 公立の教員である以上、他校への転勤は避けられない。都城商高に来て9年の原田監督は、そろそろ異動の時期ではあった。だが、時期というものがある。なぜ、ことしでなければいけなかったのか。九州地区では、3月に春の県大会が行われる。優勝した県大会でさい配をふるっていたのは原田監督。それが、4月の九州大会では新監督が指揮をとる。私学ではないだけに、コーチから就任ということはない。積み上げてきたものがないまま、新たに異動してきた監督に代わる。指導してきた監督はもちろん、選手たちの気持ちはどうなるのか。
 3月、原田監督の異動を聞かされた部員たちは泣き崩れた。
「ショックでした。1週間はほとんど練習もできず、チームの雰囲気は非常に悪い状態でした」(大迫勇輔)
 4月の九州大会は九州国際大付高にコールド負け。監督交代の影響は否めなかった。

指示待ちだった選手が積極的にプレー

 九州大会後、部員たちは奮起した。監督がいなくなってしまった以上、嘆いてばかりいてもしかたがない。自分たちでやるしかない。原田野球を知るOBが仕事帰りにグランドに駆けつけて練習を手伝い、選手たちを鼓舞した。
「原田監督に習ったことをやれば全国で通用すると思っていました。今まで監督に頼りっぱなしだった分、自分で考えて、いろいろなことを試しながらプレーするようになりました」(大迫)
「原田先生に教えてもらったことを復習してやり直しました」(内田祥文)
 指示待ちで消極的だった選手も、工夫し積極的にプレーするようになった。
 そして夏の県大会。都城商高ナインは原田監督の着ていたユニホームをベンチに持ち込み、一緒に戦っているつもりで臨んだ。試合前にはユニホームに一礼し、その試合の抱負を口にしてグランドに出る。「原田先生を甲子園に連れて行く」を合言葉にプレーしたナインは、準決勝の宮崎農高戦で3時間51分の雨天中断後に逆転勝利をするなど、甲子園出場を現実にした。

 決勝戦のウイニングボールは原田監督にプレゼント。甲子園では、原田監督のユニホームに新たに30番の背番号を縫いつけ、ベンチに持ち込んだ。30番は東京六大学などで監督がつける番号。あらためて、一緒に戦うつもりで臨んだ。
 そして、甲子園では聖望学園高、三重高を破りベスト16に進出。「今まで見てきた中で一番心がある連中」(原田前監督)というナインが、全国制覇を目標に掲げた恩師の分まで奮闘している。
「原田先生のために頑張るという気持ちです。教えてもらったことを出したい」(内田)
「今の自分らがあるのは原田監督のおかげ。甲子園で勝つことがプレゼントでもあり、恩返しの気持ちです」(大迫)

公立校の人事異動にも再考を

 高城高に異動した原田監督は、創部5年目、1、2年生で部員11人という野球部で新たなスタートを切った。すごろくでいえば振り出しに戻ったような状況だ。手塩にかけて育てた教え子たちが甲子園で躍動している姿を見て、どんな気持ちでいるのか。想像するだけで胸が痛い。
 昨夏の甲子園でベスト4に進出した浦添商高の神谷嘉宗監督も、中部商高時代、同じ経験をしている。01年秋に県大会で優勝したチームを持っていながら、4月に異動。教育委員会にかけあったが、辞令は覆らず、02年8月には教え子が甲子園出場するのを他校の教員として見ざるをえなかった。中部商高にいたのは原田監督と同じ9年。「10年は異動の心配はいらない」と校長のお墨付きも、父母会から教育委員会に提出された辞令を取り下げることを求める署名も、何の効果もなかった。結果的には昨年、浦添商高を率いて初めて甲子園出場を果たすことができたが、それが実現するまでに7年を要することになった。

 繰り返すが、公立高校の教員である以上、異動は避けられない。異動によって好転することも、数多くあるのは理解している。
 だが、少なくとも、都城商高の選手たちからは監督交代を歓迎している声は聞かれなかった。人事異動を決める側も、異動の時期やタイミングは考慮するべきではないか。勤務年数や大人の事情で異動させるのではなく、現場の声も聞く必要があるのではないか。そこには「この監督に教わりたい」と思って入学してくる選手が数多くいるのだから。
 都城商高ナインの頑張りが、人事異動を考えるきっかけになることを期待している。

<了>
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著者プロフィール

スポーツジャーナリスト。1975年12月31日、神戸市生まれ。学習院大卒業後、ラジオ局勤務を経てスポーツジャーナリストに。高校野球の徹底した現場取材に定評がある。『智弁和歌山・高嶋仁のセオリー』、『高校野球監督の名言』シリーズ(ベースボール・マガジン社刊)ほか著書多数。講演活動も行っている。「甲子園に近づくメルマガ」を好評配信中。

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