『カナ・スマイル』、再び。=バレーボール・大山加奈インタビュー

松瀬学
 大山加奈(東レ)はバレーボール界の『華』である。高さとパワーは日本の武器となる。2009年5月。真鍋政義新監督率いる新生全日本のメンバーにも名を連ねた。だが、実は昨年8月の北京五輪開催中、大山は日本で腰の手術を受けていた。大きな決断、大きな試練だった。順調なリハビリを経て、24歳の大山は新しく生まれ変わろうとしている。正直、体力も技術もまだ全日本レベルには戻っていない。でも気力は充実している。覇気はある。ロンドン五輪へ。再生への道の途中ながら、『カナ・スマイル』は戻った。

けがに苦しみ、北京五輪を断念

新生全日本のメンバーにも名を連ねた大山加奈。再生への道の途中ながら『カナ・スマイル』は戻った!? 【Photo:築田純/アフロスポーツ】

――新しいバレー人生の始まりですね。いわば第二章のスタートです。
 
 ほんと、気持ちが全然、違います。この場(全日本)に戻ってこられたことがうれしいです。周りに感謝しています。いまは毎日コンディションを整えながら、動いているという段階です。まだ全日本レベルには達していません。5セットを戦える体力もありません。それは自分が一番分かっています。体力や技術を戻しているというよりも、ゼロから新しくつくっているイメージなんです。

――08年8月の手術はバレーボール人生のターニングポイントになりましたね。それまでは随分、けがに苦しんでいましたよね。

 手術の前は足のしびれや痛みがあって、体を真っすぐ起こせなかったんです。痛いと下を向いてしまって、気持ちも暗くなってしまいます。プレーもうまくいかない。悪循環です。(2007年)ワールドカップのときは、試合よりも自分の痛みと戦っている感じでした。まず練習前のアップができなかった。なんとか練習を乗り越えていた感じでした。あんな状態でよくやっていたなと自分でも思います。北京五輪があるというのもあるし、代表の12名に選んでもらった責任もあるし、期待に応えたいという気持ちもありました。ワールドカップのあと、病院をいくつも回りました。手術を勧められたこともあったけど、手術をしたら北京に間に合わないと思って頑張っていました。

――でも結局、北京五輪は無理だと診断されたんですよね。

 はい。痛みに耐えてワールドカップを乗り越えたのに、北京は無理だと言われて。すごくショックを受けました。もう具体的な目標も持てなくなって。とにかく足の痛みやしびれがなくなるように、リハビリに取り組もうという感じでした。

「復帰した選手はいない」手術の決断

――08年8月8日、北京五輪開幕の日、医師からの最終的な診断を受けたのですね。そのときのことは?

 覚えています。そのときはヘルニアが大きくなったので、内視鏡手術で取ろうとしていたのです。最初、自分は待合室に待たされていて、監督とトレーナーが診察室に入って、先生の説明を聞いていました。その待ち時間がすごく長くて、どんどん不安になっていきました。内視鏡手術だけでは駄目なのかな、って。結局、ヘルニアと「脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)」というけがだったのですが、このけがの手術で復帰した選手はいないと聞きました。大きな手術になるので、怖さがあって、すぐには決めきれなかった。親とか、ずっとお世話になっているトレーナーとか、チームの人たちと相談しました。

――それでも、手術に踏み切ったのですね。

 正直、かなり泣きました。でも痛みから解放されたいという思いがありました。そして前例がないというのなら、自分が前例になって、同じ症状で苦しんでいる人たちの勇気や力になれたらいいなという思いがパッと浮かんできたのです。結局は、ひと晩で決めましたね。

――手術のときのことは覚えていますか。

 はい。すごく怖くなって、麻酔が効くまで、手術室では大好きな「EXILE」の曲をかけてもらいました。そして看護師さんが手を握ってくれて、安心したら、意識がなくなっていました。目が覚めたとき、親に「いま、何時?」と聞いたみたいです。1時間半で終わる予定の手術が3時間かかったと聞きました。監督も残ってくれていました。

――手術の後、北京五輪の女子バレーボールはテレビで見ていたのですか。

 見ました。すごい力をもらいました。ずっと一緒にやってきた絵里香(荒木)とか沙織(木村)とかが頑張っていた。同年代の選手が試合で頑張っているのを見ると、自分もやっぱり負けていられないと思ったし、自分もまたコートに立ちたいなと思いました。1週間は完全に寝たきりで、2、3週間後ぐらいから、リハビリが始まりました。思ったよりも大丈夫で、散歩にもひとりで行ったりしました。痛みもなくて、すごく気持ちが良かったです。

温かな復帰試合

――リハビリは順調だったようですね。ボールに触り、2月には全体練習に参加しました。どの瞬間が一番、うれしかったですか。

 一番はスパイクが打てたときです。やっぱり手術前は、もうバレーボールができなくなるかもしれない、もう二度とスパイクを打てないかもしれない、という覚悟をしたこともあったので。自分の中ではスパイクは特別なんです。スパイクが打てたとき、自分のなかですごくホッとしました。へなちょこ(スパイク)かと思ったら、パンと打てました。意外と忘れないものですね。

――試合に戻ったのが、3月15日のVリーグのデンソー戦でした。ワンポイントブロッカーとしてコートに入ったのですね。

 あの日、ユニホームを着て、コートに出た瞬間に涙が出てきてしまった。うれしくて。なおかつ、沙織までが「泣きそう」と言ってくれて。それを聞いて、すごくうれしかった。あれだけ長い間、コートに立てなかった、もうチームの一員として認められていないんじゃないかと思っていたんです。でも違った。みんなが喜んでくれたんです。本当にいいチームです。スタンドには「お帰りなさい」という幕を持っているファンの方もいて、それを見て、また泣いてしまった。試合前に泣いちゃ駄目だと思っていたのに。

――Vリーグのセミファイナル、デンソー戦では試合の流れを決めるブロックを決め、5月の黒鷲旗(全日本男女選抜大会)ではスパイク得点も挙げました。チームも、リーグと黒鷲旗の二冠を達成しました。ご自身の回復も順調ですか。

 運動量を徐々に上げていくように気をつけています。今シーズン、自分がコートに立つとしたらワンポイントブロックしかないと思っていたので、ブロックは結構、練習しました。黒鷲旗での目標はスパイクを1本決めることだったので、その目標は達成することができました。去年の優勝は正直、悔しかったり、さみしかったりしたけど、今年は素直に喜べました。

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著者プロフィール

1960年生まれ、長崎県出身。早稲田大学卒業後、共同通信社に入社。一貫してスポーツ畑を歩み、プロ野球、大相撲、サッカー、バレーボールの担当を経て、オリンピックなどをカバー。96年から4年間はニューヨーク支局に勤務。2002年に同社を退社し、ノンフィクション作家に。著著に『汚れた金メダルー中国ドーピング疑惑を追う』(文藝春秋)『早稲田ラグビー再生プロジェクト』『日本を想い、イラクを翔けた』『五輪ボイコット』(以上新潮社)『スクラム』(光文社)『サムライ・ハート上野由岐子』(集英社)『匠道』(講談社)など多数。BS日本テレビの『BSスポーツ LIVE&DREAM』(毎週土曜日午後10時)ではMCを務める。

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