女子100mの弾丸娘――L・ウィリアムズ=Quest for Gold in Osaka

K Ken 中村

05年ヘルシンキ世界陸上、女子100mを制したウィリアムズ 【写真/陸上競技マガジン】

 われわれ日本人に親しみを抱かせるのは、小柄でぽっちゃりした体格ゆえか? 身長161センチ・体重58キロの23歳。米国のローリン・ウィリアムズは大阪世界選手権で、スプリント種目の花、女子100mの頂点を狙う優勝候補の一人だ。ウィリアムズのアスリート人生は、まだ始まったばかり。なのに、喜びと悲しみが幾重にも交差している。まだ20歳だった2004年アテネ五輪では100mで銀メダルに輝きながらも400mリレーではバトンをつなげず、明と暗の両方を味わった。

 しかし、翌年のヘルシンキ世界選手権ではその両種目で金メダルに輝き、雪辱している。この年には100mで10秒88、200mで22秒27の自己ベストもマーク。まさに喜びの絶頂だった。悲観と歓喜に続く06年は世界室内女子60mで2位になったものの、ウィリアムズはケガに泣くことに。

 果たして、世界選手権イヤーの07年はどんな年になるのだろうか。世界のスプリントを制する米国にあって、国代表となるのも至難の業。まして、負傷明けからのスタートとなれば、困難はなおさらだ。それでも、明るい年となることは、これまでの人生模様が裏付けている。『陸上競技マガジン』(ベースボール・マガジン社)では、2005年4月号において、ウィリアムズが華やかな世界の舞台で味わった悲しみ、そして復活への息づかいを伝えている。
〜以下、『陸上競技マガジン』2005年4月号より転載〜

とてつもない努力家です

 あとから振り返れば納得のいくことが多いのだが、彗星のごとく現れた選手の多くは、以前から大きな可能性をきらめかせている。アテネ五輪の女子100mで銀メダルを獲得したローリン・ウィリアムズもそんな一人である。
「高校で100mと200mの州チャンピオンだったローリンをマイアミ大にリクルートしたとき、彼女がトップスプリンターに成長する可能性は高いと思っていました。それでも、入学当初に将来の可能性を聞かれていたら、『3年後にオリンピックでメダルを取る』とは答えなかったでしょうね。卒業までにはNCAA(全米大学)選手権で勝てるとは思っていましたが、NCAAチャンピオンのすべてがオリンピックでメダルを取れるわけではありません。ローリンは、私の予想よりもはるかに早く強くなりました」
 彼女のコーチを大学1年生のときから務めるエーミー・ディームは語る。しかし、すべてのコーチがウィリアムズの将来についてそのように見ていたわけではないという。背が低いため、ほかの多くのコーチは勧誘に消極的だったという。
「ローリンが走るのを初めて見たのは高2のときです。その頃は技術的にいろいろ問題があったのですが、脚の回転がとても速かったことに好印象を受けました」
 脚の回転の速さを何度も強調したディーム・コーチは「本格的に彼女をリクルートしたのは、高3までは大っぴらにはリクルートできないという規則もあり、3年生のときでした」と当時を振り返る。「高校時代は異常な前傾姿勢で走っていましたし、ストライドも狭かったのです。腰高のフォームに転換する必要がありましたし、ストライドを伸ばすこともまた必要でした。大学に入ってからそれらの改良に取り組みました。それは今も続いています」と、ローリンの技術的な問題を指摘している。
「特別飲み込みが早いわけではありません。しかし、彼女はとてつもない努力家です。できるようになるまで徹底的にいつまでも練習します。技術的改良を受け付けない選手もいますが、ローリンは違います。速く走るために必要なことをする心構えが、常にあります。何よりもコーチを信頼してくれています」
 師弟間の信頼のもと、ウィリアムズは強くなっていった。
 ペンシルベニア州高校選手権で2年連続短距離2冠というタイトルを引っさげ、ウィリアムズは2001年秋、マイアミ大に入学した。
「通常、マイアミ大陸上部では秋に、来シーズンの予定を立てます。01年の秋には、02年の世界ジュニア選手権でメダルを獲得する目標をローリンに定めました」
 ウィリアムズにとって大学生として最初のシーズンとなったのは、02年冬の室内シーズンである。2月16・17日にはニューヨーク州シラキューズ市で開かれたビッグ・イースト地区室内選手権で、60mと200mの2冠を達成して最優秀選手に選ばれた。翌3月にはNCAA室内選手権60mで7位に入った。それは大学1年生としては異例の活躍だった。
 この快挙で、ディーム・コーチは目標をさらに引き上げた。
「世界ジュニア選手権での目標を、メダルから金メダルへと変更しました」

秋に翌年の目標を

 その後、舞台は屋外に移り、5月にはビッグ・イースト地区選手権100mで優勝、200mでも2位に入った。6月1日にNCAA屋外選手権100mで6位に入ったウィリアムズは勢いに乗り、3週間後に行われた全米ジュニア選手権の100mを制して、世界ジュニア選手権代表を勝ち取ったのである。同年7月、ジャマイカの首都キングストンで開かれた世界ジュニア選手権で、ウィリアムズは地元勢を押しのけて100mを11秒33の自己新で制した。
「シーズン最後の大会で世界ジュニアのタイトルを自己新で制したことは、とてもうれしいです。これ以上、何を望めるのでしょうか」
 堂々たる優勝で自信を得たウィリアムズはその世界ジュニア選手権の400mリレーでも、米国チームの第1走者として銀メダルを獲得した。
 このように、大学1年目にして世界ジュニア選手権を制したウィリアムズは、大学2年のシーズンを迎えた。パリ世界選手権の年だったが、ウィリアムズのように米国で5本の指に入るようなトップスプリンターではない選手にとって、もう一つの大きな大会はパン・アメリカン大会だった。代表選手は全米選手権の上位選手のなかから選ばれるが、通常、上位3選手は世界選手権の代表となり、パン・アメリカン大会の代表を辞退することが多い。下位入賞でもパン・アメリカン大会の代表になれる可能性は十分にある。「02年の秋に、03年の全米選手権で決勝に進出するという目標を立てました。それが達成できれば、もう一つの目標であるパン・アメリカン大会の代表も可能だと思いました。もちろん、NCAAは常に目標の一つです」とディーム・コーチは語る。
 室内シーズンではビッグ・イースト地区室内選手権60mで優勝、200mでも2位に入ったウィリアムズは、NCAA室内選手権60mでは4位と、前年より3つ上の順位となった。屋外シーズンに入ると、ビッグ・イースト地区屋外選手権では100mで優勝、200mでも2位に入っている。そして目標の一つであるNCAA選手権では100mで3位となった。しかし200mは走っていない。
「NCAA室内では200mも走りましたが、屋外では400mリレーもあり、また100mの予選、準決勝と何本もレースがあるので、200mは走らせません。そのとき技術改良に取り組んでいたことも、走らなかった理由の一つです」と、ディーム・コーチは説明している。
 そして、全米選手権では準決勝第1組で4着に入り、目標通り決勝進出を果たした。
「全米選手権の決勝はスタートで出遅れてしまいました。反応が遅れたのです」
 ウィリアムズは7位だったが、予想通り上位の選手たちがパン・アメリカン大会の代表を辞退したので、6位だったアンジェラ・ウィリアムズとともに代表に選ばれた。ドミニカ共和国のサントドミンゴで開催されたパン・アメリカン大会の100m決勝でもローリン・ウィリアムズはまたもやスタートでつまずき、「負けた」と思ったという。
 しかし、素晴らしい中間走を見せて、キューバの選手を追い抜き、「行け!」と自分に言い聞かせて、さらに前を走るチームメートのアンジェラ・ウィリアムズを追った。最後は前回大会の銀メダリストであるアンジェラを追い抜き、11秒12の自己新で、金メダルを獲得した。そして、大会最終日の8月9日には400mリレーでアンカーを務め、米国チームを優勝に導いたのである。

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著者プロフィール

三重県生まれ。カリフォルニア大学大学院物理学部博士課程修了。ATFS(世界陸上競技統計者協会)会員。IAAF(国際陸上競技連盟)出版物、Osaka2007、「陸上競技マガジン」「月刊陸上競技」などの媒体において日英両語で精力的な執筆活動の傍ら「Track and Field News」「Athletics International」「Running Stats」など欧米雑誌の通信員も務める。06年世界クロカン福岡大会報道部を経て、07年大阪世界陸上プレス・チーフ代理を務める。15回の世界陸上、8回の欧州選手権などメジャー大会に神出鬼没。

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