遺恨――フィオレンティーナとユベントスの場合

 セリエAの開幕戦でフィオレンティーナとユベントスは1−1で引き分けた。イタリアで最も憎しみ合っている2チームの因縁は26年前にさかのぼる。

 敵を探すのは簡単だ。同じ街に2つのクラブが存在すれば、容易にライバル関係が成り立つ。イタリアに限っても、インテルとミラン、サンプドリアとジェノア、ローマとラツィオ、ユベントスとトリノがそれに該当する。これは“双子の憎悪”だ。それとは別に、タイトルをめぐっての敵もある。どの国にも優勝争いのライバル関係は存在し、イタリアならばインテルとユーベ、最近であればインテルとローマなどが“イタリア・ダービー”として成立する。

 イタリアは国の成り立ちと歴史的背景から、南部のナポリと北部(ミラノやトリノ)との対立関係もある。マラドーナ時代に全盛を迎えたナポリは、リーグ優勝を果たした翌年、インテルとの試合でミラノへ赴くと、「イタリアへようこそ!」という横断幕が待っていた(ナポリは“外国”扱いされていたわけだ)。ナポリの人々は20世紀を通じて、豊かな北部へ出稼ぎに行っていた。そんな格差社会において、北部のクラブを倒して優勝したことはナポリの人々の溜飲を大いに下げたものだ。

 社会的、地理的、あるいは競技的な敵対感情とは別に、ある事件をきっかけに対立していくケースもある。フィオレンティーナとユベントスは、まさにこれに当たる。それは、1981−82シーズンの出来事がきっかけだった。このシーズン終盤、残り2試合の時点で首位はユベントス、2位はわずか1ポイント差で“ビオラ”(フィオレンティーナの愛称)。
 このときのユーベには、82年に世界王者となるイタリア代表の中心選手が多く含まれている。ゾフ、カブリーニ、シレア、ジェンティーレ、ロッシ、タルデリ、それとベテランのベテガ、カウジオも。フィオレンティーナには、エレガントなプレーメーカー、ジャンカルロ・アントニオーニ、ストライカーのフランチェスコ・グラッツィアーニ、アルゼンチン人のダニエル・ベルトーニがプレーしていた。ユーベはアウエーでナポリに敗れ、フィオレンティーナはウディネーゼを粉砕。その結果、最終節を残して両者は勝ち点で並んだ(当時は勝利に2ポイント)。
 最終戦は両者ともアウエーゲーム。しかしフィオレンティーナの方が状況は困難だった。対戦相手のカタンツァーノは降格を免れるために1ポイントを必要としていたのに対し、ユーベの相手だったカリアリはすでに残留が決定していたからだ。カタンツァーノでは、グラッツィアーノの得点がレフェリーによって取り消されて0−0。一方、ユーベにはPKが与えられ、アイルランド人のリアム・ブレディが決めて1−0。ユベントスの優勝はフィレンツェの人々を怒らせた。イタリアでは、普通のクラブが優勝するのは、ユベントス、ミラン、インテルの5倍も難しい。それは資金力の違いというよりも、ビッグクラブがレフェリーや協会へ及ぼす影響力の違いからきている。それがイタリアの事情であり、ずっと後になって“モッジ事件”(ユベントスの元GMのモッジを首謀者として行われた審判買収などの八百長事件)によって証明されたわけだが、当時の人々もとっくに気づいていたのである。

 フィレンツェの人々は怒った。その1人である有名な映画監督のフランコ・ゼフィレッリは「スタンドにボニペルティ(ユベントス会長)を見かけたよ。ピーナッツを食っていたけど、まるで米国のマフィアそのものだったな」と、吐き捨てるように言った。
 この一件以降、両チームのサポーターを中心にいくつもの争いや中傷が繰り返されるようになった。
 その3年後の85年、ビオラのティフォージが掲げた横断幕には「ヘイゼル、39のユーベの死体」と書かれていた。ユベントスがヘイゼル・スタジアムでリバプールを破ってヨーロッパチャンピオンになった試合では、ユーベのファン39人が死亡している。その決勝の数日後、ホームにユーベを迎えたフィオレンティーナのサポーターはわざわざこんなバナーを用意していたわけだ。

 1990年、今度はユベントスが復讐を果たしている。財政危機に陥ったフィオレンティーナは、彼らのベストプレーヤーを売却しなければならなかった。ポンテロ会長は、ロベルト・バッジョを売るという苦渋の決断を迫られたのだが、買い手がユベントスだったからタダでは済まない。クラブのオフィス周辺では、昼夜を問わずサポーターのデモが行われた。バッジョは、最後にUEFAカップを置きみやげにしようと奮闘したが、こともあろうに、決勝の相手はユベントス。緒戦は3−1でユーベが勝利、第2戦はホームスタジアムを使用禁止にされていたフィオレンティーナが南部のアベリーノでホームゲームを行って0−0。カップはトリノへ持ち去られた。

 ユベントスへ移籍したバッジョが初めて古巣のコムナーレへ戻ってきた試合、彼はPKを拒否した。そのため、チームメートのデ・アゴスティーニが蹴ったが失敗。フィオレンティーナが1−0で勝利した。ビオラのファンは次々にマフラーを投げ込み、その1つを首に巻いたバッジョはマフラーにキスをした。これを見たユベントスのオーナー、ジョバンニ・アニエリはバッジョを「ぬれたウサギ」と非難した。

 その後も両者の対立は続いたが、戦力に勝る(そしてレフェリーも味方の)ユベントスの優位は動かなかった。フィオレンティーナの勝利は、98年にガブリエル・バティストゥータの一発による1−0の勝利くらい。ただ、奇妙なことに両者は憎み合いながらも、多くの選手や監督を交換していた。トリチェッリ、ディ・リービオ、マレスカ、ミッコリ、バルザレッティがトリノからフィレンツェへ、キエッリーニは2都市を往復している。ディノ・ゾフは2005年にフィオレンティーナの監督になり、98〜00年はジョバンニ・トラパットーニがビオラを率いた。現在のチェーザレ・プランデッリ監督も元ユベントスの選手である。

 開幕戦の土曜日、フィオレンティーナはスタンドで中傷の横断幕を禁じた。ユベントスも、それに応じて敵対的なバナーを禁止。そして、結果も仲良く引き分け。さて、積年のライバルは新しい関係を築くのだろうか、それとも……。

<了>
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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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