米国ドリームチームが取り戻した名誉=バスケ

宮地陽子

8月24日、北京五輪男子バスケットボール決勝は米国がスペイン下し、金メダルを獲得。写真は優勝を喜ぶ米国代表のレブロン・ジェームス(左)とチームメイトら 【Photo:ロイター】

 6月末、北京五輪に向けた米国代表合宿は、R&B・ソウル歌手、故マーヴィン・ゲイの歌で始まった。
 米国代表ヘッドコーチのマイク・シャシェフスキーは、練習コートに持ち込まれた大型スクリーンの前に選手全員を集めると、「これが私たちの歌だ」と言い、1983年NBAオールスターでゲイが米国歌「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」を歌ったときの映像を流した。情感こもったゲイの歌声に聴き入った選手たちは、五輪最終日の8月24日に表彰台の真ん中に立って、国歌を聴いている自分たちの姿を思い浮かべていた。

 1992年バルセロナ五輪の米国代表が「ドリームチーム」(夢のチーム)と呼ばれたのに対し、今回は「リディームチーム」(名誉挽回チーム)と呼ばれていた。米国が北京五輪で名誉挽回したいこと、取り戻したいものは2つあった。一つは金メダル。バルセロナ五輪では無敵の強さで世界を魅了した米国も、その後10年で世界に追いつかれ、2004年アテネ五輪では準決勝でアルゼンチンに敗れて銅メダルに終わっていた。アテネ前後の世界選手権でも6位(2002年)と3位(2006年)に終わっており、8年間、世界王者から遠ざかっていた。
 ただし、単に金メダルを取ればいいというわけでもなかった。金メダルとともに、世界からの敬意を取り戻す必要があった。即席の準備不足のチームで世界の舞台に立ち、それでも勝って当然という態度を取っていた米国に対して、他国は敬意を抱くどころか傲慢(ごうまん)だと批判するようになっていた。敬意を取り戻すためには、対戦相手に敬意を払って本気で準備し、そして実力で勝つことだった。コート上とコート外の両方で世界一のチームとして復権することが、“リディームチーム”の使命だったのだ。

平均得点差32で決勝ラウンドへ

 とはいえ、今回の米国代表は決して完ぺきなチームだったわけではなかった。たとえば、大会前から問題視されていたフロント陣のサイズ不足。NBAでパワーフォワードあるいはセンターのポジションの選手はドワイト・ハワード、クリス・ボッシュ、カルロス・ブーザーの3人だけで、しかも210センチ以上なのはハワードだけ。高さがない分を機敏性と運動能力で補おうとしていた。あるいはオフェンス面での緻密(ちみつ)さが欠けることも相変わらず弱点だった。3年計画で主力やコーチ陣に継続性をもたせて挑んでいたとは言うものの、ジュニア世代から何年も同じメンバーで戦っている他国の連携プレーには及ばない。その欠点はディフェンスのプレッシャーを激しくし、速攻の得点を増やすことで補う作戦だった。完ぺきなチームを作ろうとすれば、むしろ中途半端なチームになる。それより持ち味を徹底的に発揮できるチームにこだわったのだ。
 予選ラウンドは予想以上に米国の強さが目立った。激しいディフェンスから1試合平均14.4本のスティールを奪い、畳み掛けるような速攻で得点を重ね、圧倒的な強さを見せ付けた。緒戦の中国(31点差)や続くアンゴラ(21点差)、最終戦のドイツ(49点差)といった勝って当然な相手はもちろん、2年前の世界選手権準決勝で悔しい敗戦を喫したギリシャにも23点差、そのギリシャを破って世界選手権王者についたスペインにも37点差の勝利。予選ラウンド5試合平均32点差をつけ、全勝でB組1位として決勝ラウンドに進出した。米国以外では、B組からは2位スペイン、3位ギリシャ、4位は地元中国、A組からは1位リトアニア、2位アルゼンチン、3位クロアチア、4位オーストラリアが決勝ラウンドに進出した。

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著者プロフィール

東京都出身。国際基督教大学教養学部卒。出版社勤務後にアメリカに居を移し、バスケットボール・ライターとしての活動を始める。NBAや国際大会(2002年・2006年の世界選手権、1996年のオリンピックなど)を取材するほか、アメリカで活動する日本人選手の取材も続けている。『Number』『HOOP』『月刊バスケットボール』に連載を持ち、雑誌を中心に執筆活動中。著書に『The Man 〜 マイケル・ジョーダン・ストーリー完結編』(日本文化出版)、編書に田臥勇太著『Never Too Late 今からでも遅くない』(日本文化出版)がある。現在、ロサンゼルス近郊在住。

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