五輪に挑む日本サッカー界の指針=クラマーの時代から40年を経て
五輪サッカー史における3度の奇跡
1968年のメキシコ五輪・銅メダルから40年。日本サッカー界における五輪の位置づけは変わったが、変わらないものもある 【Photo:AFLO】
この打ち上げ花火のような公約は、五輪日本代表監督たちのノルマとして定着している。既に開幕の段階でワールドカップ(W杯)の半分の16カ国に絞られているし、何より過去に銅メダルという歴史があるから「とりあえずベスト8」とは言い出しにくいのだろう。
それでも中田英、中村俊らをそろえ「最強」と期待を集めたシドニー大会(2000年)は現実味があったが、今回はいくら反町監督が「メダル」と繰り返しても、世間がまったくついてきていない。米国、ナイジェリア、オランダというグループリーグでの対戦相手、さらにもしそこを2位で切り抜けても、おそらくアルゼンチンが立ちはだかる過酷な未来図に直面すれば、どうしてもメダルへの道を描くのは難しい。
16カ国参加のアジア代表という立場上、どうしても日本は必ずグループリーグから優勝候補国と同居する。そして五輪と言えば奇跡である。1936年ベルリン大会ではスウェーデン戦、64年東京大会ではアルゼンチン戦、96年アトランタ大会ではブラジル戦と、日本は五輪サッカー史に残るような奇跡的な勝利を3度も繰り返してきた。ただし奇跡はすべて初戦。優勝候補国に潜む油断を味方につけたが、反面最終的な結果には結びつかず、グループリーグが2試合のみ(有名プロを多数含んだイタリアが事前に棄権)だった東京大会以外は決勝トーナメント進出を逃した。むしろ奇跡は「経験不足の選手たちには大きな達成感をもたらし」(東京大会・デットマール・クラマー特別コーチ)、長期間のトーナメントを戦い抜くための集中力を削ぐ逆効果もあったという。
本来東京大会ではアルゼンチンには敗れても、次のガーナ戦に勝って決勝トーナメント進出というのが現実的な目標だった。ところが初戦でアルゼンチンに逆転勝ちしたことで、グループ首位通過が見えた。もし首位なら準々決勝の相手はアラブ連合共和国(現エジプト)だったから、クラマーには4年早くメダルを獲れたかもしれないという悔恨がある。しかし勝てると読んでいたガーナ戦は残り11分間で2点を奪われ逆転負け。結局準々決勝ではチェコスロバキア(当時)に0−4で完敗するのである。
ただしその4年後の銅メダル獲得には、奇跡の勝利の後暗転してしまった東京大会の苦い経験が生きた。次のメキシコ大会のメンバーは14人が東京大会の経験者で、スタメンはほとんど前回から引き継がれた。しかも東京からメキシコまでの4年間は、毎年同じようなメンバーで欧州と東南アジア遠征を繰り返し、強豪チームを招いて強化試合を続けてきた。逆に一部エリートを集中的に強化した方法は、メキシコ後の低迷を呼び込む遠因にもなった。
40年前から現在につながるもの
「日本サッカー育ての親」と言われるクラマー氏。2008年7月19日「デットマール・クラマーを囲む会」JFAハウスにて 【スポーツナビ】
原則23歳以下の選手たちが出場する現在の五輪に、40年前の強化方法は意味を成さない。プロの文化が浸透しつつある今なら、逆に4年間もレギュラーが不変というのは不健全だし、あくまで個々は所属クラブで強化されるべきだ。しかしそれでも40年前にも、現在にもつながるヒントがいくつかある。
40年前、日本の成功を支えたのは、最高のコンディショニングだった。空気の薄いメキシコという特殊な状況下でのコンディショニングは、2年後にW杯を控えた各国の関心を呼び、銅メダル獲得後の日本協会は質問攻めにあったという。またクラマーは当時から「日本人の俊敏性を生かした速くボールを動かせるスタイル」を追求しており、戦術を簡略化し、チーム内では喧嘩腰で互いに要求し合う空気を醸し、アマチュアの時代にもプロ以上の全力を求め続けた。
おそらく、今、反町監督がチームに求めていることも、実はほとんど変わらないのではないかと思う。
開催地が同じアジア。最高のコンディションを作り、地の利を生かし全力を尽くして相手より足とボールを動かす。裏返せば、難しい条件下で戦わなければならないライバル国にとって、心底うっとうしい戦いを演じることが、結果や内容につながるはずである。
40年前、クラマーは銅メダルという結果以上に「血を出し尽くし、宿舎に戻るとともに倒れ込んだ選手たちを見て」大量の涙をこぼした。
要するに、正しく定まった指針に沿った120%の全力。
五輪は、W杯や欧州チャンピオンズリーグ以上に不確実性の高い舞台である。それが発揮できれば、何が起こっても不思議はない。
<了>
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ