宣教師ヒディンクの“教え”

 95年にオランダ代表監督に就任し、96年のユーロで敗退した後、彼はチームの習慣を変える必要があると感じた。オランダ生まれの選手たちと、スリナム系との分裂を憂慮(ゆうりょ)したのだ。新しいコックを雇って黒人のための伝統的な料理を作らせた。フランク・ライカールトをスタッフに引き入れ、4−3−3からPSV風の4−4−2に変えた。これらの変革で98年W杯は4位となり、プレーぶりも良かった。

 再びクラブ監督に戻るが、レアル・マドリーでもベティスでもタイトルを獲れず。02年W杯のために強化を続けていた韓国代表の監督になる。18カ月で100万ドル(約1億円)という契約だった。韓国では未知の文化に適応しなければならなかったが、いつも通り彼流のやり方で立ち向かった。メディアやサッカー協会会長と衝突し、トレーニングをオフにするなど対抗手段もとりながら、最後は4位を勝ち取って韓国では永遠のヒーローになっている。

 その後、PSVに戻ったヒディンクは良いシーズンを送った。だが、毎回主力選手を引き抜かれ、毎年チームを作り替えなければならなかった。06年W杯が近づくと、オーストラリア代表監督に就任し、PSVとの兼任となる。オーストラリアはベスト16に進出、イタリアには負けたが、わずかに0−1という十二分な成果を残した。大会後、彼をチェルシーの監督に推す声が多かったが、ロマン・アブラモビッチは同じ給料(年俸200万ドル/約2億円)を払ってチェルシーではなくロシア代表監督に就任させる。

 期待に違わず、ロシアはイングランドを蹴落として予選を突破した。だが、ユーロ本大会の緒戦ではスペインに1−4と完敗。ロシアは若く、経験不足な面があり、こうした大会で戦うにはナイーブだったようだ。試合後、ヒディンク監督は、「2点目と4点目に関しては、学生のチームだってあんなミスはしない」とコメント。
 残るはギリシャ戦、スウェーデン戦。果たして、ヒディンクの魔法は今回も発揮されるのか。

<了>

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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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