宣教師ヒディンクの“教え”

 1998年ワールドカップ(W杯)でオランダ代表監督を務めた後、2002年には韓国、06年はオーストラリアを率いたフース・ヒディンクは、どの国をも輝かせる監督と認識されている。今回はロシアがそれに乗ったわけだが、ユーロ(欧州選手権)2008のスタートは散々であった。

 レオ・ベーンハッカー、ルイス・ファンハール、フース・ヒディンクの3人は、オランダ人がフットボールで何かができることを証明している。現代の宣教師たちは、19世紀の宣教師の多くがオランダ人だったように、地球上のどこにでもフットボールを布教する。ただ、ヒディンクは一般にイメージされるオランダのフットボール(4−3−3やアヤックス)の伝道師ではない。オランダ南部のドイツ国境近くに生まれ、父親はアマチュアフットボーラーで学校教師だった。兄弟5人うち2人がプロ選手になったように、ヒディンクは67年にデ・フラーフスハップでデビューする。70年にPSVに移籍するがレギュラーポジションは得られず、1シーズンでデ・フラーフスハップに戻り、76年までそこでプレーした。

 デ・フラーフスハップはアヤックスのような“洗練された”プレーをするチームではなく、ゲームはもっとフィジカルで“勝つこと”に集中していた。このメンタリティーは今日のヒディンク監督に影響を与えている。その後、彼は北米リーグにわたり、ワシントン・ディプロマッツとサンノゼ・アースクエイクスに在籍。この時期、ジョージ・ベストのルームメートだった。ヒディンクは電話担当で、ファンから電話がかかってくると「ジョージは外出中だ」「ジョージは今寝ている」と言う係も兼ねていた。だが、ピッチ上での彼はもはやその他大勢の選手ではなく、自分の将来を予感していたそうだ。

 コーチとして最初のクラブは当然、デ・フラーフスハップだった。やがてPSVでアシスタントコーチを3年、ようやくトップチームの監督になったのが87年。そこから快進撃が始まり、リーグ初優勝とカップ優勝とチャンピオンズカップ優勝の“トリプル”を成し遂げて、アヤックスやフェイエノールトと並ぶオランダの3強にのし上がった。PSVはロマーリオ、ロナウドが入団するクラブに格上げされた。

 そのスタイルは、よく走る、規律のある、戦術的なものだが、可能なかぎりテクニカルな要素も入れ込む。彼がいたるところで作るチームは、必ずタフなメンタルと強い性格(ときにはたちの悪い)を持った選手で構成される。例えば、エリック・ゲレツ、フィリップ・コクー、ロマーリオ、カランブー、ビドゥカ、キューウェル、ケーヒル。このことについて、ヒディンクは言う。
「いろんな人から言われるよ、ああいう選手を使うと面倒が起こるのではないかとね。しかし、彼らは必要なんだ。彼らは強い意志を持ち、本能的にハイレベルのゲームで何をすべきかがわかっている。混乱は起こるが、それも必要なこと。監督としては、彼らとはすぐに衝突することになる。だが、それによってグループ全体にチームスピリッツを植え付けることができる」

 クリスチャン・カランブーの例。ヒディンクがレアル・マドリーの監督だったとき、カランブーは遅刻してトレーニングにやってきた。規則に従って罰金を払って練習に参加しようとすると、ヒディンクはこう言った。
「いやいや、罰金は払うな。払わなくていい、そんなの簡単すぎるだろ。その代わり、今日はもう家に帰れ。今日、俺はもうお前の顔など見たくないからだ」
 翌日、カレンブーは1時間も早く練習場に来ていたという。
 90年代、フェネルバフチェとバレンシアでは失敗している。クラブの方針と合わなかった。
「私には私のやり方があり、いままでそれでやってきた。誰が反対してもだ」

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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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