スコラーリ時代の終わりを前に=ポルトガル代表と歩んだ6年間

市之瀬敦

それでもスコラーリは偉大だ!

フィーゴ(右)らの黄金世代に加え、クリスティアーノ・ロナウドら若手の台頭もあり、スコラーリが監督に就任したときのポルトガル代表はすでに充実した戦力を有していた 【Getty Images/AFLO】

 ならば、スコラーリ監督は凡庸な指導者なのか? フィーゴ、ルイ・コスタあるいはデコ、クリスティアーノ・ロナウドといったワールドクラスの選手に恵まれた幸運な監督というだけの人物なのか?

 私はそうは思わない。1970年代だって、ポルトガルには高い技術を持った選手がいたがW杯にもユーロにも縁がなかった。1980年代になると、84年のユーロでベスト4まで勝ち上がったものの、86年W杯・メキシコ大会では選手が練習をボイコットするという醜態をさらしてグループリーグで敗退した。90年代になれば、「黄金の世代」がA代表の主力になったが、W杯には出場できず、ユーロ96でのベスト8進出が精いっぱいだった。そして、満を持して臨んだ2002年W杯・日韓大会でのグループリーグ敗退という大失態は記憶に新しいところである。

 スコラーリ監督はそんな歴史を持つポルトガル代表の指揮を引き継ぐことになり、1年半後には結果を出したのである。確かに、ユーロ2004での準優勝には地元開催という有利な面があった。しかし、それを差し引いても、準優勝を果たしたことはポルトガルサッカー史に残る偉業である。

 また、2006年W杯でベスト4まで勝ち進んだことも、それに引けを取らないくらいの快挙である。監督は結果がすべてなのかどうは別にして、ポルトガルサッカー史上、これほどまでに見事な結果を残した監督は1人もいない。やはりスコラーリは偉大なのだと思う。

 現在、スコラーリ監督の月給は25万ユーロ(約4000万円)と言われる。ポルトガルサッカー協会も随分と代表監督に給料を払うようになったものだと思うが、スコラーリ監督がポルトガル国民に提供した勝利と栄光を考えれば、決して高くはないようにも思えるのだ。

なぜポルトガル代表は世界の頂点に立てないのか?

 では、スコラーリ監督の勝利の秘けつとは何だろうか。彼はポルトガル代表の何を変えたのだろうか?

 まず、指摘しておくべきは2002年末、スコラーリ監督がポルトガル代表監督に就任した時、ポルトガルにはフィーゴ、ルイ・コスタ、フェルナンド・コートといった円熟期を迎えていた世界的な選手がいた。それだけでなく、ブラジル生まれでポルトガル国籍を取得したデコに頼れることも分かっていたし、クリスティアーノ・ロナウドのような若手の台頭も始まっていた。確かに、2003年2月のイタリア戦と最近の試合ではずいぶんとメンバーが変わっているものの、スコラーリ監督は人材の宝庫ポルトガルにおいて人的資源の不足に悩まされることはなかったはずである。

 優秀な選手がそろっているにもかかわらず、なぜポルトガル代表は世界の頂点に立てないのか? むしろスコラーリ監督は、この疑問に対する答えを探す必要があった。

 そこで思い浮かぶのが、選手のメンタリティーの問題。つまり、悪しき「宿命観」というか、もっときつい言葉で言えば「負け犬根性」である。実際、この問題は1980年代までのポルトガル人選手には当てはまったかもしれない。当時はまだポルトガル人選手には、強国に対するコンプレックスが確かにあったのだ。しかし、現在マンチェスター・ユナイテッドでコーチを務めるカルロス・ケイロスにユース代表時代に鍛えられた「黄金の世代」の選手たち、そしてより若い選手たちはコンプレックスとは無縁である。逆に、世界で戦う彼らには自信がみなぎっている。

 では、ポルトガル人一般の国民性の問題だろうか。事実、スコラーリ監督は就任後、ポルトガル人のメンタリティーについて何度か発言し、その悲しさ、内向性を指摘している(同時にホスピタリティーを褒めているが)。スタジアムで、いや日常生活の中でも感情を豊かに表現するブラジル人から見れば、ポルトガル人のおとなしさは、少なくともサッカーに関してはマイナスに思えるはずだ。

 だが、この点もスコラーリ監督には大きな困難とならなかったのではないか。ユーロ2004の際、ポルトガル中の家の窓にポルトガル国旗が飾られていたことを覚えている方も多いだろう。確かに感動的な光景ではあったが、私には、ユーロ2004よりも5年前の1999年9月、旧ポルトガル領だった東ティモールで略奪や虐殺が行われた時にポルトガル人が見せた連帯の姿、具体的にはリスボンを広く囲んだ「人間の鎖」(ヒューマン・チェイン)と2重写しになって見えた。植民地支配の罪をあがなうかのように作られた大きな人間の鎖。それがナショナリズムでなく何であろう。つまり、ポルトガル人にとり、ナショナリズムの遠慮ない発露はすでに経験済みだったのである。

2/3ページ

著者プロフィール

1961年、埼玉県生まれ。上智大学外国語学部ポルトガル語学科教授。『ダイヤモンド・サッカー』によって洗礼を受けた後、留学先で出会った、美しいけれど、どこか悲しいポルトガル・サッカーの虜となる。好きなチームはベンフィカ・リスボン、リバプール、浦和レッズなど。なぜか赤いユニホームを着るクラブが多い。サッカー関連の代表著書に『ポルトガル・サッカー物語』(社会評論社)。『砂糖をまぶしたパス ポルトガル語のフットボール』。『ポルトガル語のしくみ』(同)。近著に『ポルトガル 革命のコントラスト カーネーションとサラザール』(ぎょうせい)

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント