リトアニア代表入りを狙うNBAのベテランセンター=バスケ五輪コラム

宮地陽子
 人口350万人の小さな国、リトアニアの人々にとって、バスケットボールは国の誇りであり、文化であり、ときには宗教のような対象でもあるのだという。
「リトアニアには、ほかに世界に知られているものが何もないからね」と、ジドゥルナス・イルガスカスは言う。NBAのクリーブランド・キャバリアーズ(キャブス)に入って12年目のベテラン・センターだ。
 イルガスカスはこの12年の間に米国人の妻と結婚し、今ではすっかり米国が第二の故郷となっている。コート上でもNBAが身に染み込み、2年前にキャブスがユーロリーグの強豪、マカビ・テルアビブ(イスラエル)と親善試合をしたときには、米国人並に国際ルールに閉口し、文句を言っていたほどだ。

代表を辞退する本当の訳

 実はイルガスカスは、この12年の間、母国の代表活動から遠ざかっている。
 2年前、日本で開催された世界選手権を前に、リトアニア代表として来日する可能性があるかどうか聞いたことがある。彼は少し残念そうな表情で、「たぶんないだろうね。僕も年を取ってきたし、NBAのシーズンは長いから……」と答えた。
 しかし実のところ、「年を取ってきたから」というのは代表を辞退する一番の理由ではない。当時30歳だった彼がベテランの域に入ってきていたことは確かなのだが、何しろ、彼は20代のときから代表には参加していなかったのだ。

 最大の壁は故障だった。1996年にキャブスにドラフト指名されて以来、いや、正確にはその前から、イルガスカスは足や腰の故障に悩まされ通しだった。ドラフトされた前のシーズンはリトアニアのリーグに所属していたが、足の故障で全休。そしてNBAに入って最初のシーズンも全休。結局、NBAに入って最初の5シーズンの間でフル出場できたのは1シーズンだけ。そのシーズンを入れても、5シーズンの間の出場試合数は、全体の三分の一にも満たなかった。「ガラスの足」などと揶揄(やゆ)されたものだった。
 実際、何度も手術を受けた足は、長いNBAシーズンが終わったあとの貴重な休暇期間を使って代表活動ができるほど丈夫ではなかった。リトアニア代表としてプレーすることは、彼にとっては贅沢(ぜいたく)な夢だったのだ。

 有望なバスケットボール選手だけは他国に負けないくらいそろっているリトアニアは、イルガスカス抜きでも五輪のたびに好成績をあげている。アトランタ五輪(1996年)、シドニー五輪(2000年)で銅メダル、アテネ五輪(2004年)で4位。
 しかし、それでも「もしイルガスカスが代表に入っていたら」という仮定の問いかけは幾度となく繰り返された。
 そして、その「もしも」を誰よりも頭の中で思い描いていたのはイルガスカス自身だったのかもしれない。

北京は自分にとって最後のチャンス

 今年2月、イルガスカスはリトアニア・バスケットボール協会に「北京五輪に代表として出場したい」と告げた。何カ月か悩んだ末に出した結論だった。NBAでも、この6シーズンは、ほぼ毎年9割を越える試合に出場することができていた。2003年、05年にはNBAオールスターに選ばれるほどの実績もあげることができた。今年6月で33歳となる彼にとって、長年の夢を叶えるのは今、このタイミングしかないと判断してのことだった。

「年を取りすぎる前に代表としてプレーしたいとずっと思ってきた」とイルガスカスは言う。
「これが自分にとっては最後のチャンスなんだ」

 これで、イルガスカスがリトアニア代表入りして北京五輪でメダルを取ることができたら、物語はめでたし、めでたしのハッピーエンドだ。しかし、現実はそう甘くはなかった。キャブスから待ったがかかったのだ。
 本来、NBAを初めとする各国のリーグとFIBAの間には、所属チームは選手が国の代表としてプレーすることを妨げることはできないという取り決めがある。しかし、イルガスカスの場合は、数少ない例外の一人だった。というのも、キャブスはこれまで多くの故障、手術を繰り返してきたイルガスカスとの高額契約に対して保険をかけることができなかったのだ。もし、五輪で戦う間に故障して選手生命が終わったとしても、キャブスは高額のサラリーを払い続けなくてはいけない。だからこそ、代表活動を禁止する権利もあるというわけだ。
 リトアニアの協会では現在、独自に保険を探して、キャブスの説得材料にしようとしているという。さらに、リトアニアのファンの間では、キャブスに対して嘆願書を送ろうという動きもある。

 5月18日、キャブスはプレーオフ2回戦でボストン・セルティックスに敗れ、シーズンを終えた。イルガスカスとキャブスの間では、これから五輪に向けて最後の話し合いが行われる見込みだという。
 果たしてイルガスカスはリトアニア代表として五輪に出るという夢をかなえることができるのだろうか。そして、私たちは北京でリトアニア代表の完成形を見ることができるのだろうか。

<了>
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著者プロフィール

東京都出身。国際基督教大学教養学部卒。出版社勤務後にアメリカに居を移し、バスケットボール・ライターとしての活動を始める。NBAや国際大会(2002年・2006年の世界選手権、1996年のオリンピックなど)を取材するほか、アメリカで活動する日本人選手の取材も続けている。『Number』『HOOP』『月刊バスケットボール』に連載を持ち、雑誌を中心に執筆活動中。著書に『The Man 〜 マイケル・ジョーダン・ストーリー完結編』(日本文化出版)、編書に田臥勇太著『Never Too Late 今からでも遅くない』(日本文化出版)がある。現在、ロサンゼルス近郊在住。

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