ウーゴ・サンチェス、イメージの失墜=メキシコ代表監督を解任された国民的英雄

念願のメキシコ代表監督就任会見では満面の笑みを浮かべていたウーゴ・サンチェスだったが…… 【Photo:AFLO】

 恐らくウーゴ・サンチェスにとって、2008年3月31日は自身のキャリアの中で最悪な日となったに違いない。この日、メキシコフットボール協会は、国民的英雄で世界でも名声をはせた選手の1人だった男から、代表監督の地位を奪い取った。

リーガで5回得点王に輝いた栄光の日々

 サンチェスは80年代にスペインで活躍し、メキシコ最高のストライカーと称された。1981年、メキシコのUNAMプーマスからアトレティコ・マドリーに移籍すると、4年後にはレアル・マドリーに活躍の場を移し、黄金時代を築いた。当時のレアル・マドリーはエミリオ・ブラトゲーニョ、マノロ・サンチス、マルティン・バスケス、ミチェル、ミゲル・パルデサの5人による「キンタ・デル・ブイトレ(ハゲタカ軍団)」が中心となって隆盛を誇っていた。

 サンチェスもリーガ・エスパニョーラで5回の得点王に輝き、ゴールを決めると宙返りパフォーマンスを行うことでも人気を博した。そして何より、サンチェスは母国メキシコの人たちを熱狂させたのだった。当時のメキシコは代表チームでもクラブチームでも、サンチェスほどの栄冠と地位を獲得することは不可能だったからだ。

 サンチェスはすべての広告や雑誌の表紙を独占した。当時のメキシコフットボール界において、彼以外に海外でプレーしている選手はほとんどいなかった。今も昔も、国内クラブのサラリーは十分満足できるレベルであったし、何より海外移住という伝統がメキシコにはなかったからだ。

 サンチェスの場合、当時のアトレティコ・マドリーの会長が、このメキシコ人ストライカーを気に入るという幸運があった。会長は最初、クルス・アスルのマルドナードの視察にメキシコへ行ったのだが、プーマスに所属していたサンチェスが目の前で連続ゴールを決め、強烈な印象を残したのだった。結局、アトレティコはサンチェスを獲得し、そこからマニート(サンチェスの愛称)の栄光の歴史が始まった。とはいえ、スペインでの1年目は活躍できず、周囲はプーマスにとんぼ返りすると思っていた。だが、サンチェスは成功を納めるまでスペインに残ると言い張ったのだった。

サンチェスのW杯になるはずが……

 サンチェスのキャリアで不思議なのは、スペインでの輝かしい実績に比べて、“エル・トリ”(トリコロール=メキシコ代表の愛称)ではそれに匹敵する活躍を残していないことだ。全盛期のほとんどを海外のクラブで過ごしたため、代表にあまり招集されなかったことが理由である。それでも、サンチェスは78年、86年、94年と3回のワールドカップ(W杯)に出場した。

 78年のアルゼンチン大会では、メキシコはグループリーグ3連敗を喫し、勝ち点0のまま帰国の途についた。しかも、西ドイツ戦は0−6の大敗だった。地元開催となった86年大会は、誰もが“サンチェスのW杯”になると信じて疑わなかった。だが、大きな活躍を見せられなかったのみならず、グループリーグのパラグアイ戦では、守護神フェルナンデス相手にPKを失敗。メキシコはベスト8には進出したが、母国の人々を失望させる結果となった。

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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