ウーゴ・サンチェス、イメージの失墜=メキシコ代表監督を解任された国民的英雄
バッシングを受けた監督時代
選手としても監督としても成功し、今なお絶大な人気を誇るヨハン・クライフ 【 (C)Getty Images/AFLO】
サンチェスは、外国人であるラボルペがメキシコの代表監督に就くことを決して受け入れなかった。06年のW杯ドイツ大会で“エル・トリ”はグループリーグ突破を果たしたが、決勝トーナメント1回戦の相手は、指揮官の母国アルゼンチンとなった。結果は延長戦の末に、1−2で敗退。サンチェスはこうした事態を避けるためにも、代表監督は母国出身であるべきだと主張した。
そして06年11月、ついにサンチェスはメキシコ代表監督の座に就任し、U−21代表(現U−23代表世代)の監督も兼任することとなった。しかし、解任までの1年余り、代表にふさわしい戦術を確立することもなければ、チームとしての形を見せることさえもなかった。サンチェスが就任時に掲げた目標は、CONCACAFゴールドカップ優勝とコパ・アメリカ(南米選手権)ベスト4、そして北京五輪でのメダル獲得だった。07年のコパ・アメリカでは3位に入りメキシコ国民を喜ばせたが、あとの2つは実現しなかった。
07年ゴールドカップで米国に敗れて準優勝に終わったことに加え、さして難関とも思われなかった五輪予選での敗退は、サンチェスの去就を決定的なものにした。それ以前から、代表監督としてのサンチェスの手腕には疑問符がついていた。ラボルペの方がよかったという声も挙がっていたくらいだ。
一流選手は監督としても“本物”か
例えば、アルフレッド・ディ・ステファノ、あるいはヨハン・クライフといった天才は、指導者としても輝かしい実績を残した。一方で、ペレは指揮官としてベンチに座るという選択をしなかったし、ディエゴ・マラドーナはアルゼンチンで2クラブを率いたが、ストレスをためただけだった。監督時代のマラドーナは、「俺がやったようにプレーすればいいんだ」という指導スタイルだったという。また、当時の選手たちの証言によれば、監督対選手というよりは、選手同士の扱いだったようだ。
フランツ・ベッケンバウアーの場合は、監督業を早々に切り上げ、マネジメント業の方にシフトチェンジを果たした。06年W杯では大会組織委員長を務め、現在はバイエルン・ミュンヘンの会長に就いている。フランスの生んだ天才、ジネディーヌ・ジダンは引退後も監督業には興味を示していない。彼が尊敬するウルグアイ人のエンツォ・フランチェスコリと同様、現在はテレビコメンテーターとしてフットボールに携わっている。
一流選手が監督業に乗り出す際には、自らのイメージを損なう可能性があることをよくよく考えた方がいいだろう。名声を手にするのは並大抵のことではないが、失うのは一瞬である。ウーゴ・サンチェスのように、わずか1年で輝かしいキャリアを失ってしまうこともあるのだ。
<了>