アルゼンチンの若武者、加藤友介

山名洋子

14歳の決意

アルゼンチン1部リーグのウラカンで挑戦を続けるFWの加藤友介(写真右)。夢はボカの本拠地ボンボネーラで戦うことだ 【Foto:Alberto Raggio/Photogamma】

 8月にスタートしたアルゼンチン前期リーグは現在、折り返し地点へと差し掛かったところだ。そのリーグ戦でアルゼンチン人選手に混じってプレーしている外国人選手の中に、ウラカンに所属する加藤友介という、ある日本人FWが名を連ねている。アルゼンチン1部でプレーする日本人選手としては、2001年にボカ・ジュニアーズに在籍した高原直泰(現フランクフルト)以来2人目となる加藤だが、本人は「高原選手はこっちに来る前から日本で有名やったじゃないですか。僕なんかとは比べものにならないですよ」とあくまで自然体だ。

「小さい頃はカズ(三浦知良=横浜FC)にあこがれていたので、カズダンスを踊ったり、またぎフェイントとかをまねしてました」。生まれ故郷の大阪・箕面市で、小学校、中学校とサッカーの練習に励んでいた加藤。だが彼は、次第に部活動のレベルに物足りなさを感じるようになったという。そこで加藤は思いきって海外に行かせてもらいたいと家族に相談を持ち掛け、そして彼の両親がこれに深い理解を示したおかげで、中学2年の春休みを利用した、2カ月間のアルゼンチンサッカー留学が実現することになった。
 実はこの留学を決意する前、加藤は友人とともにガンバ大阪のユースのテストにも挑戦している。だが結果は不合格。「あの時もし受かっていたら、たぶんアルゼンチンには来てなかったでしょうね。でも日本のユースでやって上に行けなかったら、先の目標がなくなって、きっと僕はそのままサッカーを辞めてたと思うんですよ。だから今は、あの時テストに落ちて逆に良かったんじゃないかと思ってます」

 こうして当時14才の加藤は、南米アルゼンチンへと飛び、コーディネート会社の紹介を受けて、ウラカンの9軍(U−14カテゴリー)で練習に参加した。彼はその滞在を「とにかく楽しかった」と振り返る。「みんな自分よりデカい選手ばっかりでした。9軍でもうまい奴は相当うまくて、そういうところはスゴいなと思いましたね」。2カ月間の滞在を通して、すっかりアルゼンチンのサッカーに魅せられた加藤は、ある決意を胸に日本へと帰国した。「高校に入る前から、卒業したら絶対アルゼンチンに行くって決めていました。もうそのことしか考えてなかったです」

 4年後の2004年4月、高校を卒業したばかりの加藤は、再びウラカンへとやってきた。前シーズンに降格したウラカンは、再昇格を目指して2部リーグを戦っているところだった。知り合いを通じて、5軍(U−18)で1年のテスト期間を設けてもらい練習に合流した加藤は、次第にその実力を伸ばしていく。「まず、そんな簡単にボールを取られないようになりましたね。こっちってボールを取られるたびに仲間とか監督に怒られるんで、そこはずっと気に掛けながらやってました。来た当初よりはできるようになったと思います。あとは気持ち、根性っていうんですか。そういうのがないと、やっぱりアルゼンチンではやっていけないので、精神的に強くなることが大事だと実感しました」。5軍でのテスト期間を無事クリアした加藤は、翌年の8月に4軍(U−19、20)のメンバーとして登録され、ユースのリーグ戦でプレーするようになる。

トップチームデビュー、そして1部昇格

 4軍に入って1年余りが経過した昨年10月。試合での出場回数とゴール数を増やし始めていた加藤は、ある日の紅白戦でハットトリックを決め、たまたま視察に訪れていたトップチーム関係者の注目を集める。その翌日、4軍と1軍の間で行われた試合に加藤が再び出場し、好調なプレーを披露すると、後半から1軍メンバーに混じるようにとの指示が出た。思いがけない展開に戸惑いながらも全力で臨んだ加藤は、試合が終わった後、トップチームのモアメド監督に呼ばれた。「『明日から1軍の練習に来い』って言われたんです。あの時は本当にうれしかった」

 こうしてたどり着いたトップチームは、それまでの下部組織とはだいぶ様子が違っていた。「4軍は子供のサッカー、1軍は大人のサッカーです。体も大きいですし、1人ひとりのレベルが高いから、何をやってもちゃんとしたサッカーが成立するんですよ。それと4軍はみんな同い年なので、その分やりやすかったですけど、1軍になるとやっぱり上下関係があったりするので、そういうところも難しいです。最初のうちはパスももらえなかったりしましたから。でもこうやって1軍で練習するだけで、レベルアップになっているのは確かです」。トップチームに合流した加藤は、その約1カ月後に2部リーグデビューを果たし、シーズン中は13試合に出場して1ゴールを決めた。そしてこの加藤の得点も手伝って、ウラカンは見事1部への昇格を果たしたのだった。

「周りはウラカンの昇格が歴史的なすごい事だって騒いでましたけど、僕自身はそんなに実感していなくて、2部にいた時とあまり変わらないです」。加藤が所属するウラカンは1903年に設立された長い伝統を誇るクラブで、73年には、たった一度ではあるが1部リーグの頂点に輝いたこともある。だが、1部の中で6番目ぐらいの位置をキープしていたウラカンのレベルは、運営上の問題などもあって徐々に下がり始め、2003年に3度目となる降格を味わってからは、2部リーグを脱出できないまま何シーズンかを過ごしていた。そんなウラカンを今年4年ぶりに1部へ復活させたのが、加藤に1軍でのチャンスを与えた“トゥルコ”ことモアメド監督である。「トゥルコのサッカーはフォーメーションがアルゼンチンっぽくなくて、メキシコにあるような3−4−1−2なんですよ。ほかにやり始めてるところもありますけど、ほとんどのチームは4−4−2です。ウラカンではトゥルコのやり方がちゃんと機能してました。1部に上がれたのは彼のおかげです」。モアメド監督は加藤を始めとする選手、そしてサポーターから絶対的な信頼を置かれ、ウラカンのシンボル的な存在となっていた。

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著者プロフィール

11歳から19歳までの約8年間を南米パラグアイで過ごす。2002年のワールドカップ・日韓大会をきっかけにサッカー関係の仕事に携わるようになり、代理人事務所での勤務も経験。06年からはフリーのスペイン語の翻訳者・通訳として活動する一方、海外サッカー、フットサルなどの取材も手掛ける

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