東西の帝国、ヤ軍とド軍を築いた“ファミリー・ビジネス”
ドジャース王国の誕生
父親のウォルターとともに、ドジャース王国を築いたピーター・オマリー 【 (C)Getty Images/AFLO】
1953年11月24日、ナショナルリーグで2年連続優勝を果たしたブルックリン・ドジャース(当時)は指揮官チャック・ドレッセンを解任、マイナーの監督を務めていたウォルター・オルストンを後任に据えると発表した。50年にオーナーのウォルター・オマリーが経営の実権を握ってから、初の監督交代劇であった。
メジャーでわずか1打席の選手経験しかなかったオルストンは、ドジャースの担当記者でさえ「誰だ?」とその抜てきに首をかしげるほど無名の新監督だった。しかしその後、ドジャースがロサンゼルスに移転し、オーナー職が息子ピーターに代替わりするなど激動の23年間、オルストンは監督の座にあり続けた。さらに77年からその跡目を継いだトミー・ラソーダも、96年までの20シーズンさい配を振るった。この43年の間に、ドジャースは11回のリーグ優勝と6回のワールドシリーズ制覇を果たした。
オルストンは就任から勇退まで、単年契約が原則だった。シーズンの全日程終了後、オルストンがオーナー室へあいさつに訪れる度に、ウォルターが「来年、ドジャータウン(春季キャンプ地の愛称)で会おう」と握手で応えるのが“契約更改”で、オマリー親子が少なくとも表立った形でオルストンのさい配に口を出すことは、まったくなかった。
オーナーの仕事を引き継いだ息子のピーター・オマリーが97年限りで経営から撤退すると、ドジャースのチームカラーは大きく変わった。「短命政権」が続くようになった“ポスト・オマリー家体制”で、7人目の監督として2008年から指揮を執るのは、元ヤンキース監督のジョー・トーリだ。
恐怖の“キング・ジョージ”
2000年にワールドシリーズを制覇したときのジョージ・スタインブレナー(左)とジョー・トーリ監督 【 (C)Getty Images/AFLO】
96年にトーリが招聘(しょうへい)される前、73年にジョージ・スタインブレナーが球団を買収してオーナーの座に就いてから23年間、ヤンキースにおける監督の座はドジャースとは対照的な地位であった。5度の就任と解任を繰り返したビリー・マーティンを含め、監督代行を入れれば23代、13人が平均2シーズン持たずに“キング・ジョージ”によって「13階段」へと送られた。だが、今回の監督交代人事で、ブライアン・キャッシュマンGMとともに主導権を握ったのは、ジョージの長男で共同オーナー兼球団上級副社長のハンク・スタインブレナーだった。
オマリー家とは対照的に、「金も口も出す」のがスタインブレナーのスタイルだ。ダッグアウトへの直通電話で監督の指揮に介入したり、敗戦後のクラブハウスで選手たちを罵倒(ばとう)したりするのは日常茶飯事。たとえ複数年契約を結び、好成績を残した監督でも、翌年の契約を保証するものではなかった。実際、77年に15年ぶりのワールドシリーズ優勝を果たしたマーティンは、翌78年、度重なるオーナー批判などが原因で、最初の解任に追い込まれている。
成功へ導いたスタインブレナー
オーナー就任時に「5年以内の世界一奪回」をファンに公約したスタインブレナーだが、スタート時からがけっぷちで、目に見える結果を早急に出すことが求められる立場にあった。ニューヨーク市当局に働きかけてヤンキー・スタジアムを全面改修し、折からのフリーエージェント(FA)時代到来とともに、大物FA選手を獲得。その一方で、他球団で実力を発揮できないでいたグレイグ・ネトルズ、ウィリー・ランドルフ(現メッツ監督)らをトレードで入団させて主力に据えるなど、地道な補強策も怠らなかった。ヤンキー・スタジアムがリニューアルオープンした76年に13年ぶりのリーグ優勝を果たすと、初の観客動員200万人台を突破。現在、ヤンキースは野球のみならず、世界最高の資産価値を有するプロスポーツチームにのし上がっている。
両チームがワールドシリーズで最後に対戦したのは81年。そのとき一敗地にまみれたスタインブレナーがリベンジを果たす――あるいは西海岸に新天地を求めたトーリが古巣に一矢を報いる機会は、今シーズン果たして巡ってくるのだろうか。
<了>
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