18歳の新鋭・錦織圭、ツアー初Vの裏側

内田暁
 言葉を生業(なりわい)とする者の端くれとして、こんなことを口にしてはいけないし情けないとも思うのだが、正直、今回錦織圭が成し遂げたことの偉大さを、どこから説明したらいいのか、どうしたら正しく伝えられるのかが整理できない。それ程に、この18歳の新鋭が世界12位のジェームズ・ブレーク(米国)を破り果たしたツアー初優勝は、あまりに突然で、あまりに衝撃的すぎた。

“修造チャレンジ”が世界へのきっかけ

「日本人選手としては、松岡修造以来16年ぶり。ツアータイトルを獲得したのも、松岡に次いで2人目」
 
 17日に行われた男子テニスのデルレービーチ国際選手権(米国・フロリダ・デルレービーチ)でツアー初優勝を果たした錦織の快挙を表す史実として、この事はすでに多くのメディアでうたわれている。そして、運命の符合かあるいは歴史の必然か、そもそも錦織が世界へと進む足がかりを作ったのは、他ならぬ松岡修造氏なのだ。今より約6年前、「松岡修造が委員を務めるJTAの強化本部およびジュニア育成本部との共催で、世界を目指すトップジュニアを対象とした強化キャンプ」(オフィシャルサイトより)である“修造チャレンジ”に参加したことが、錦織少年に世界への扉を開かせた。
「“修造チャレンジ”が、やっぱり大きかったです。それまでは、有名な選手に会う機会もあまりなかったので」
 島根という決してテニスが盛んではない土地で育った少年が松岡の指導を受け、おぼろげながらも世界というものを意識しはじめたそのとき、さらなる契機が訪れる。現日本テニス協会会長が設けた『盛田正明テニスファンド』の支援で、アンドレ・アガシやマリア・シャラポワらの著名選手を輩出した『ニック・ボロテリー・テニスアカデミー』に留学する機会を与えられたのだ。だが、当時わずか13歳の少年にとって、親元を離れ言葉も文化も異なる地に行くという決断を下すのは、当然、たやすいことではない。その当時の心境や葛藤(かっとう)を、彼は以下のように述懐する。
「せっかくのチャンスなのだからという気持ちと、怖いという思いが半々でした。でも自分自身のことなので、最終的には周囲がどうではなく、自分で行くと決断しました」

 与えられた機会をモノにする、そして世界に通用する選手になる――希望と覚悟を胸に渡ったアメリカだが、最初はつらいことの方が多かったという。
「言葉も通じないし、日本食も食べられない。両親のことを考え、ホームシックにもなりました」
 だが、そのような異邦の地での孤独感から錦織を救ってくれたのも、やはりテニスだった。世界中から豊かな才能を見初められた精鋭が集うアカデミーにおいても、彼の資質は高く評価されはじめ、それに伴い、本人も徐々に「やっていける」という手ごたえをつかむ。こうして渡米2年目に入ったころには、「これが自分のやるべきことだ。自分にはこれしかない!」と天啓にも似た思いを得、早くも自分の進むべき道を自覚したというのだ。

ヒューイット以来の年少優勝者に

 先に、今回の錦織のツアー優勝は日本人として二人目であることに触れたが、これはもちろん、日本人の最年少記録。そして世界のテニス的にも、18歳2カ月でのツアー優勝は、1998年にレイトン・ヒューイット(豪)が16歳11カ月で優勝して以来の年少記録である。そもそも通常18歳くらいの選手にとって、いや、多くのテニス選手にとっては、ATPの大会に出場すること自体が快挙なのだ。一般的にニュースなどで取り上げられる(男子の)テニス大会とは、毎週のように世界のどこかで開催されるATPツアーのことで、四大大会と呼ばれるウィンブルドンなどもこれに含まれる。だが、この男子トップランクの大会群にコンスタントに出られるのは、数あるプロ選手の中でも、えりすぐりの80〜100人程度。それ以外の選手たちは、これらの大会出場権をかけて予選を戦ったり、あるいはATPよりも下の格付けになる“チャレンジャー”と呼ばれる大会群を回ってポイントをためたりして、ランキングの上昇を図る。今から1年前の錦織の世界ランキングは600位前後、それが今年2月の時点では250位前後にまで上がっていたものの、それでもまだまだランキング的には、チャレンジャーでの上位進出を目標とするレベルだ。実際に錦織も、ここ1年程は“チャレンジャー”を中心に回っており、そして現時点でも、“チャレンジャー”でのタイトルはない。それが今回、予選3戦を勝ちあがりATP本選出場を果たすと、そのまま、地の利があるはずのアメリカ選手をことごとく撃破し、そして本人も予想すらしていなかった優勝。この事実は、ここ1年間での彼の成長がいかに凄まじいかを、物語っていると言えるだろう。

準優勝のブレークも大絶賛

 それにしても、今大会の錦織の練熟したプレーを、どう形容したら良いものか。彼の身上は、全てのショットが高いレベルで融合するオールコートテニスであり、その根幹を成すのは、高い予測能力と軽快なフットワーク、そして、速いスイングから広角に打ち分けるフォアハンドストロークだ。だがそのような画一的な解析も、彼が今現在見せている高次元のテニスの前では、いかに空虚に響くことか。ここは、実際に錦織と対戦し彼の力を肌で感じた選手や、日ごろから共に練習しているコーチの声に耳を傾けるべきだろう。
「彼ほど両方のサイドでボールをクリーンに打てる選手は、そう多くない」(準決勝で敗れた、サム・クエリー=米国)
「初めて彼を見たとき、『このボーイは、世界トップ20レベルのボールを打つな』と思った。それにとても頭が良く、試合を組み立てるのがうまい」(グレン・ウェイナーコーチ)
「彼のジャンピング・フォアハンドには悩まされた。とてもスピードがあり、ボールをクリーンに打つ選手。プレースタイルで言うなら、ノバック・ジョコビッチ(今年の全豪OP優勝者)に似ているかな」(ジェームズ・ブレーク)。

 かくのごとく、28歳のブレークは、自身を下した18歳に対し賛辞を惜しまなかった。だがそれでも「ケガやメディアへの対応など、今後、学ばなくてはならないこともたくさんある」と、大先輩としてプロの厳しさを忠告することも忘れない。確かにブレークの言うとおり、毎週のように世界を転戦するテニス選手にとっては、今日の栄光も次の瞬間には過去となり、翌日には新たな戦いが待っている。現に錦織も、今週からは戦地をサンノゼに移し、「タイトル所有者」として初のトーナメントに挑む。
 大会中は家族と話さないという錦織は、決勝戦に勝利した直後に初めて両親に電話を入れた。インターネットで試合を観戦していた両親は、受話器の向こうで「信じられない」を連発する息子に「おめでとう」と言葉をかけたが、父の清志氏は「来週からまた試合なんだろ。ちゃんとストレッチとかしておけよ」と、早くも手綱を締めにかかったという。
 私たち日本のファンやメディアも、浮かれ気分は数日に留め(まだまだ余韻に浸りたい、というのが本音だが)、ここからの彼の戦いをこそ、しっかりと見守っていくべきだろう。

<了>
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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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