【新日本プロレス】CMLLの逆輸入ファイター・OKUMURA「両団体の架け橋になるのが僕の使命」

ミカエル・コバタ

新日本プロレス×CMLLの「FANTASTICA MANIA」に参戦する“逆輸入”ファイター・OKUMURAにインタビュー 【スポーツナビ】

 今年で7回目を迎えた新日本プロレス「CMLL FANTASTICA MANIA 2017」が1・13大阪で開幕。その後、愛媛、京都、名古屋を転戦し、20日より、ファイナーレとなる東京・後楽園ホールでの3連戦が開幕。そこで、新日本とCMLLの“架け橋”となっているOKUMURA選手に、13年に及ぶメキシコでの生活、後楽園大会への意気込みなどを聞いた。

「死ぬ気で1年」の覚悟でメキシコ行き決める

全日本プロレスで活躍も「このままじゃダメだ」と考え退団。行き場所を探す中で、メキシコという選択肢が出てきた 【スポーツナビ】

――メキシコに渡る前に、全日本プロレスを退団されましたが、どのような事情があったのでしょうか?

 全日本が門戸開放して、ボクも1998年から参戦させてもらうようになりました。最初は(ジャイアント)馬場さんに出してもらっていたわけです。その後、馬場さんが亡くなって、三沢(光晴)さんの体制となって、しばらく呼ばれなかったんですが、またスポット参戦させてもらうようになりました。そんな折、分裂があって、三沢さんたちがノアをつくった。そのとき、(馬場)元子さんから連絡があって、『あなたは向こう(ノア)から誘われてるの?』と聞かれたので、『誘われてません』と答えて、また上がるようになって、2000年10月に入団したわけです。ボクが全日本で、お世話になったのは馬場さん、三沢さん、元子さんの3人なんです。ですが、その後、武藤(敬司)さんの体制になって、一生懸命やってはいるんですけど、今のままじゃ「ひと山いくら」の選手だな。このままじゃダメだから、変わらなきゃ』と思って辞めたんです。先に元子さんに意向を伝えました。

――その後、どうしてメキシコに行くことになったのですか?

 まず、馳(浩)さんに相談に行きましたし、林(督元)リングドクターの紹介で、新日本プロレスと話したりもしました。そして、師匠である栗栖(正伸)さんに『全日本を辞めました』と報告するために、あいさつに行ったんです。そしたら、栗栖さんから『メキシコに行ってみないか?』と言われて……。栗栖さんは80年代に3年半、メキシコにいた経験があるんです。それで、『ネコちゃん(ブラック・キャット)とは友達だから紹介してやるから』と言われまして。そのとき、メキシコに行くなんて考えてもいませんでした。

――それがまた、どうして心変わりをしたのですか?

 ネコさんと食事する機会がありまして、ネコさんは新日本の人だけど、『オレは栗栖さんと友達だから、新日本も全日本も関係ない。分け隔てはしないから。「1年間は帰らない」と約束するなら、CMLLに口を利いてやるから』と言ってくれたんです。そりゃ向こうの団体だって、3カ月や半年で帰られたのでは意味がないですからね。半年とかじゃ何も覚えないし、商品としての価値もないですから。

――そこで、メキシコに行く決断をされたんですか?

 いいえ。まだです。それからメキシコ行きを考えるようになりました。なんせメキシコでイメージできたのはタコス、テキーラ、サボテンが多い、ルチャ・リブレくらいだったんですから、まったくゼロから考えてみることになったんです。そこで、悟ったんですよ。ボクは5万といるプロレスラーのなかで、しょせん『ひと山いくら』の選手。確かに無謀な挑戦だし、『アイツ、頭狂ったんじゃないか?』とか言われましたよ。でも、吹けば飛ぶような人生。死ぬ気で1年やってみて、ダメならキッパリ、プロレスを辞めようと覚悟して、メキシコに行くことを決めました。それで、家を引き払って、車を売って、海外転出届を出して、行くことになったんです。04年の5月ですね。

7、8000人いるルチャドールとの生存競争

今年も来日しているウルティモ・ゲレーロら、移籍当初からCMLLのトップ選手と戦っていた 【スポーツナビ】

――完全に退路を断ったんですね?

 ハイ。でも、メキシコに着いて、正直2時間で帰りたくなりました(笑)。スペイン語が全然分からないから、標識すら読めない。それまでも海外に行ったことは何度もあるけど、今までと違っていて……。『これは無理』と思いました。宿に荷物を置いて、タコスを食べに行ったら、東洋人だからバカにされたのか、そこにいた人が空手のポーズで、挑発してくるようなことをされて。『とんでもない所に来たな』と実感しました。タクシーに乗って、『アレナ・コリセオ』と言ったのに、『アレナ・メヒコ』に連れて行かれたこともありました。でも、スペイン語ができないから説明もできない。外国人だからといって、深夜料金でボラれたこともありましたね。

――練習の方はどうだったんですか?

 レジェンドのエル・サタニコ先生指導の下、毎週火・水・木曜に合同練習に出るのが条件でビザを申請してもらいました。当時一緒に練習していたのは、ウルティモ・ゲレーロ、レイ・ブカネロ、ボラドール・ジュニア、メフィスト、ヴィールスといったすごいメンバー。レベルも高いし、『これは無理。ポイ捨てにされて消えるな』と思ったりもしました。だから、今まで日本でやってきたことはリセットして、考え方を変えないとダメだなと思いましたね。

――デビューはどんな感じでしたか?

 ボクはネコさんの紹介だったから、TVマッチで使ってもらったんです。だけど、自分の実力に合ってない起用でしたね。これじゃ、1クールで消えるなと思いました。試合がある日は、夜中とか朝方に帰ってきて、それでも合同練習には行かなきゃいけない。サタニコ先生の練習はキツいんです。それが終わると、アレナ・メヒコで走ったり、ウエイトやったりで、すごく疲れました。試合がある日もありますしね。だけど、ボクには帰る場所がない。団体の後ろ盾がない。外国人だけど、生きていかなければならない。いつまでいられるか分からない。だったら、中途半端なことはせずに一生懸命やってダメならあきらめようと思いました。

――スペイン語はどうやって覚えたんですか?

 最初はイチ、ニ、サンという数字すら、スペイン語で言えなかったんです。とにかく言葉を覚えるしかなかったので、週に何回か先生にカフェに来てもらって、個人レッスンを受けました。

――当初のギャラは,1試合いくらという形だったのですか?

 ハイ。今でもそうです。給料制ではないですから、試合をやってナンボです。メキシコにはルチャドールが3000人いるとか言われてましたけど、メキシコ全土のローカル選手を含めると、今は倍以上いるんじゃないですかね。7000〜8000人はいるんじゃないですか。CMLLでは、メキシコシティだけで、140〜150人の選手がいる。会社が大きすぎて、正確な選手や社員の数なんて定かじゃない。そのほかに、ローカルのアレナ・プエブラ、アレナ・グアダラハラにも選手がいる。そんななかで、1つの興行に出られる選手は30人ちょっと。全員が出られるわけじゃないし、そこにたどり着くのは大変。試合に出ないと、収入はゼロなんです。CMLLには常設会場が4カ所あって、メキシコシティのアレナ・メヒコ、、アレナ・コリセオ、アレナ・プエブラ、アレナ・グアダラハラがありまして、他にも地方に派遣される選手もいますが、それも数えるほどしかいません。

――生存競争が大変ですね……。

 そうなんです。CMLLのメキシコシティではクラスがいっぱいあって、月謝を払って練習に来る人、地方から来た人、誰かの紹介で来た人がいます。そこで、半年から1年、練習してダメならあきらめるしかないんです。テストに合格してCMLLに入れても、1カ月、3カ月、テスト的にやらせてみて判断されるんです。契約しても安泰じゃないし、シビアです。ましてボクは外国人ですから。ゲストなら言葉が分からなくてもいいけど、ボクは特別な人間じゃなかったですから大変でした。

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