V8王者・山中に立ちはだかる最強挑戦者〜“幽霊”アンセルモ・モレノ〜

船橋真二郎

幽霊と言われるディフェンス技術

9月22日に山中の持つWBC世界バンタム級王座に挑戦する最強挑戦者のアンセルモ・モレノ 【写真は共同】

“ファンタスマ(幽霊)”の異名はその捉えどころのないボクシングから付けられた。当の本人も自身のストロングポイントを問われて「打たれないこと」と即答し、“神の左”だろうと「何度でもかわして見せる」と豪語する。実際、アンセルモ・モレノ(パナマ)は一級のディフェンステクニックでWBA王座を2014年9月まで6年4カ月にわたって12度防衛。バンタム級で一時代を築いたサウスポーの名手である。

 対照的に一撃必倒の左でWBC王座を8度防衛してきた山中慎介(帝拳)が「正直、空回りさせられるのではないかという不安はある」と語ったのは発表会見のとき。浜田剛史・帝拳ジム代表は「派手さはないのだが、相手をヘタに見せるうまさがある」と表現した。とにかく、やりづらい。それがモレノだ。眼の良さ、しなやかな上体をフル稼働し、かわして、いなして、相手の攻撃を空転させる。打ち終わりを抜け目なく狙うカウンター、まごつく相手を嘲笑うかのような一刺し。攻めのベースにあるのも、またディフェンスだ。

 あのマイク・タイソンがプロモートする同じサウスポーのファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)に6回負傷判定で敗れ、ベルトを奪われたが、ラフなアタックに苦しみながらも少しずつペースを掴み始めた矢先の不運だった。当然、再戦を要求するが、パヤノ陣営には受け入れられない。失ってしまったものの大きさをモレノはきっと痛いほど感じてきた。なにしろ無冠で過ごした1年間は、そのままパナマの世界王者不在期間と重なるのだ。
「私は手ぶらでパナマに帰るわけにはいかない。トーキョーに来たのはベルトを持ち帰るため。判定だろうとKOだろうと構わない。このチャンスを絶対に逃したくはない」

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貧困から抜け出すためのボクシング

 02年3月、16歳9カ月でプロデビュー。中南米のほとんどのボクサーと同じように貧困から抜け出す道を自らの拳に託した。7、8歳ごろからキッズボクシングのリングに84回上がった。本来は右利き。ボクシングを始めたころは、左構え、右構えと奔放にスイッチしていたというから、当時から器用さを持ちあわせていたのだろう。それからアマチュアで174戦し、負けは12戦のみ。“幽霊”の下地をつくった立派な戦績が示すように、06年にはパナマのボクシング協会から「パナマで最も期待できる逸材」に選出。押しも押されもせぬ、同国最大のホープとなるまでに時間はかからなかった。

 プロでモレノのボクシングを完成させたのはセルソ・チャベストレーナー。現役時代は1984年3月に来日し、渡辺二郎に挑戦したが、ついにベルトには手が届かなかった。モレノとはまったくタイプが異なるが、現在は前WBA世界フェザー級スーパー王者ニコラス・ウォータース(ジャマイカ)のトレーナーとして知られる。ちなみに現在のマネージャーを務めるロウス・ラグナ・デ・モレノ夫人の父、つまりモレノの義父はパナマ史上2人目の世界王者イスマエル・ラグナ。70年6月、WBA・WBC世界ライト級王者として、まだ鈴木石松と名乗っていたガッツ石松を首都パナマシティに迎え、世界初挑戦の若武者を13回TKOで退けている。

実績を評価されてスーパー王者に

 モレノの世界初挑戦は08年5月。シドニー五輪銅メダリストで無敗の王者ウラディミール・シドレンコ(ウクライナ)に挑み、持ち前の技巧を駆使して12回判定勝ち。王者のホームグラウンドであるドイツで見事にベルトを奪取した。以降、3度目の防衛戦では再びドイツに飛び、シドレンコを返り討ち。4度目、5度目の防衛の地はフランス。より高い報酬を求め、積極的に海外で戦った。7度目の防衛戦で前WBA暫定王者のネオマール・セルメニョ(ベネズエラ)との再戦を制すると、WBAからスーパー王者に認定。近年のWBAのベルト乱発は目に余るものがあるが、実績を評価されての“格上げ”ということになる。

 11年12月にはアメリカに進出。この4カ月後、東京で山中に挑むサウスポーの強打者ビック・ダルチニャン(オーストラリア)を判定で退け、3階級制覇を阻むと12年11月、アメリカ3戦目で迎えたのが、のちの3階級制覇王者アブネル・マレス(メキシコ)との一戦だった。バンタム級時代からライバルの一人と目されたマレスに挑むWBCスーパーバンタム級タイトルマッチはモレノにとって、さらに高い評価を獲得する分岐点でもあったのだが、体力に勝るマレスの圧力に屈した。5回終了間際に喫したスリップ気味のダウンはキャリア初。敗戦は4回戦時代以来、実に10年ぶりだった。

“攻”の山中、“守”のモレノ

 現在、世界的にも高い評価を受けている山中への挑戦はモレノが失地を一気に回復する最後のチャンス。長年、コンビを組んできたチャベストレーナーとの別れ。近年、付きまとっていた減量苦の噂。1年間のブランク。不安材料も少なくはないが、これだけ野心をかき立てられる相手もいないだろう。山中にとっても、他団体の王者を含め、今のバンタム級でモレノほどの実績を残している強豪は見当たらず、実力を証明し、評価を確定させる最大のチャンスなのである。

 対戦者をくるくると空回りさせてきた“守”のモレノが「挑戦者とはいつも貪欲にベルトを獲りにいかなくてはならない。クレバーに立ちまわり、ベルトを獲りたい」と状況に応じた柔軟な試合運びを誓えば、対戦者をバッタバッタと斬って落としてきた“攻”の山中は「今回はまずは勝ちにこだわり、結果的にKOできればいい。意識はしないようにしてます」と、とことん冷静な試合運びを念頭に置く。モレノ、30歳。山中、32歳。バンタム級の頂上決戦は勝敗が両者を天と地ほどに隔てるシビアな戦いとなる。

「海外の関係者の話を総合すれば、『モレノはヤマナカでも倒せない』という意見がほとんど」(浜田代表)
 そんなKO負けが一度もない難攻不落の“幽霊”に対し、素直に不安を表明していた山中は「モレノの印象? 今までも話してきたけど、当てにくい、強いというより難敵という言い方が正しいのでしょうか。ただ、当てにくいことはわかっているし、当てるための対策を何パターンも練習してきて、自分が何をしなければいけないのかもわかっているので何の不安もない。試合を見といてください」と言いきった。勝つだけでも高い評価に値するが、倒せば最大級の賛辞をもって称えられる。注目のゴングは22日、東京・大田区総合体育館で鳴らされる。
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著者プロフィール

1973年生まれ。東京都出身。『ボクシング・ビート』(フィットネススポーツ)、『ボクシング・マガジン』(ベースボールマガジン社=2022年7月休刊)など、ボクシングを取材し、執筆。文藝春秋Number第13回スポーツノンフィクション新人賞最終候補(2005年)。東日本ボクシング協会が選出する月間賞の選考委員も務める。

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