降って湧いたJ1ライセンス問題の行方 J2・J3漫遊記ツエーゲン金沢<後編>
北信越リーグ時代の記憶
ツエーゲン金沢となって最初の公式戦での集合写真。現在、クラブスタッフとして働く顔ぶれも見える 【宇都宮徹壱】
ツエーゲン金沢となって、初の公式戦となったのは06年の北信越リーグ開幕戦、津幡市で開催された上田ジェンシャン戦である。あれからちょうど10シーズン。当時は雲の上の存在と思われていた、ジュビロ磐田やジェフユナイテッド千葉と、金沢は同じカテゴリーを戦い、しかも一時は彼らを上回る順位を保っていた。クラブ立ち上げ当時を知る人々は、どのような思いで今の状況を見つめているのだろうか。
「地域リーグ時代は、100人くらいのお客さんでしたからね。今では3000人でも『こんなに来てくれるんだ!』と感慨深い気持ちになりますよ。今の順位ですか? はっきり言って、できすぎですよね。JFLに昇格したとき(09年)も運が良かったと思いますし、去年のJ3優勝も信じられなかったけれど、今回はそれ以上ですよね」
田中三枝は地域リーグ時代の06年から、金沢のボランティアを続けている。北信越リーグ、JFL、J3、そしてJ2。カテゴリーが上がるたびに、スタジアムを取り巻く風景も、そしてピッチ上でプレーする選手たちの顔ぶれも変わった。10シーズンにわたり、その移り変わりをつぶさに見つめてきた田中は、ボランティア仲間の間ではリスペクトの対象となっている。当然だろう。選手はもちろん、スタッフの中にも、06年当時を知る人間は、クラブの中には現社長の米沢寛以外にはいないのが実情である。
今ではあまり語られていないことだが、そもそもツエーゲン金沢が立ち上がるきっかけを作ったのは、星稜高校サッカー部監督の河崎護、そして元日本代表で県立金沢桜丘高校サッカー部監督だった越田剛志(現北陸大学教授)であった。しかし黎明期を支えた両者は、さまざまな理由でその後クラブを離れてしまった。また実質的権限を持つGM(ゼネラルマネジャー)についても、わずか10シーズンの間に代替わりが続き、現職で3人目。地域のポテンシャルはあるのに、過去の実績や経験が受け継がれていかない。それが、金沢というクラブの口惜しいところである。
「一生懸命やっている選手がかわいそう」
内灘町にある県営の人工芝施設でトレーニングする金沢の選手たち。現在、自前の練習場はない 【宇都宮徹壱】
J1ライセンスには、施設基準や財政基準などさまざまな項目がある。北九州の場合、J1仕様のスタジアムがなかったためにライセンス交付が見送られたが(2017年にはJ1仕様の新スタジアムが完成する予定)、金沢の場合はスタジアムではなく、「常用できるピッチ、クラブハウス、メディカルルームなどトレーニング施設」がないことがネックになっていた。自前の練習場がないため、今は市や県の施設を転々としながらトレーニングをしている。
降って湧いたような「J1ライセンス問題」。しかし現場では、それほど話題となっている様子はない。監督の森下仁之は「僕らがどうこう言える問題ではないですが」と前置きした上で、このように語っている。
「J1ライセンスがないことは、今季をスタートさせる時点で分かっていたことでした。われわれの今季の最大の目標は、あくまでもJ2残留。『ライセンスがないからモチベーションが湧かない』なんて話は、少なくとも現場では通用しないですよ(笑)。いずれクラブがもっと大きくなったら、満を持してライセンスを取得すればいいと思います」
では、サポーターの間では盛り上がっているのかというと、こちらもそうではない。コアなサポーターほど、この問題に対してはむしろ冷淡でさえある。その理由について、ゴール裏のある中心メンバーはこう説明してくれた。
「僕らはサポーターなので、どのカテゴリーであっても応援を続けますし、今すぐにJ1ライセンスが必要だとも思っていないです。もちろん、クラブハウスも練習場も欲しいけれど、あくまで選手のために作られるべきだと思います」
「J1ライセンス問題」をめぐる構図を単純化すると、このようになる。まず現場サイドは「今季の目標はJ2残留」といたって冷静。ファンやサポーターについては、ライト層を中心に「これだけ頑張っているのだから」と今季でのJ1ライセンス申請を望んでいるが、長く応援しているコア層は「なんで今になって騒いでいるの?」というのが実感のようだ。それではクラブのフロント、そして行政側は、この問題をどう捉えているのだろうか。