柿谷曜一朗、才能を解き放つため欧州へ セレッソに別れを告げ新たな挑戦に挑む
「柿谷待ち」状態のときは輝いたが……
東アジアカップから日本代表入り。適材不在の1トップの“メシア”として期待されたが…… 【Getty Images】
結果、C大阪はリーグ戦で4位に入り、柿谷は日の丸を付けるようになった。順風満帆とも言える流れだったが、結果としてこのタイミングは悪かったのかもしれない。適材不在である1トップを担う“メシア”としての期待を集めたが、2013年のC大阪で彼が果たしていた役割は、代表でのそれとは大きく異なっている。かなり器用な選手でもある柿谷は、求められるそれを敏感に察して順応に努めていたように見えた。ただ、2013年の代表で彼が最も輝いたのが、主力不在の東アジアカップ・韓国戦で、まさに「柿谷待ち」の状態になったときだったのは、なんとも暗示的だった。
2014年、クルピ監督はクラブを去り、ボールを保持するスタイルを愛するランコ・ポポヴィッチ監督が就任。さらにウルグアイ代表FWディエゴ・フォルランの加入もあって、柿谷がクラブ内で求められる仕事は自然と変わった。この編成で「柿谷待ち」のサッカーはあり得ない。ここでも、そうした空気をよく察知してしまう柿谷の個性は出ていたと思う。2014年の柿谷はよく守っていたし、よく走ってもいた。「1トップでは得点が期待されると思うけど、(今年は)そうやないから」。そんな言葉も自然なものだったとは思うのだが、W杯を控えて「日本代表のエースストライカー」と見なした周囲の目は、それを許さなかった。
「足りていなかった」ものを求めて海外へ
J1 C大阪―川崎 移籍前最後の試合を終え、イレブンに胴上げされるC大阪・柿谷=金鳥スタ 【共同】
2014年の柿谷は、必ずしも「不調」というわけではなかった。フォルランが不在だったAFCチャンピオンズリーグでは、彼らしい形でのゴールも重ねている。ただ、周囲が求める柿谷像について困惑もしていた。実際のところ、経験不足ではあったのだろう。短いキャリアではないが、シーズンを通してチームのエースとしての重責を担い、結果を残したのは2013年が最初だったのだ。W杯における代表の得点源という、もう1つの重責まで一緒に負わせるのは、結果として早すぎた。
夏を前にして、バーゼル行き濃厚という話を聞いたとき、特に違和感はなかった。W杯の結果を思えば、いわゆるビッグクラブへ即座に移籍するという道はない。ただ、彼の実に旺盛な「成長欲」を満たすためには、C大阪に留まるという選択肢もなかったのだろう。
あえて厳しい言い方をすれば、現時点での柿谷は「足りていなかった」。経験も、実力も。それを求めて海を渡るのだ。バーゼルは欧州チャンピオンズリーグという現代サッカー選手にとって最高峰の大会へエントリーする権限を持ったクラブでもある。恐らく大きな困難が待っているであろう。しかし、この類まれなる才能が、彼の地で磨かれ、もう一段上の輝きを放つようになることを期待している。