【道標 Vol.7】瀬川 智広
日本代表として多くのキャップを持ち(最終的に41キャップ)、のちにフランスのバイヨンヌでプロ選手として活躍した村田亙氏と時代をともにしただけに、出場機会は限られていた。
瀬川さんが引退を決めたのは、その才能あふれる先輩がフランスに旅立った年。前年に伊藤護が加入していた。のちに桜のジャージーを着ることになる後輩スクラムハーフは、すぐに頭角をあらわした。
「村田さんに追いつくことを目標としていました。そして、後輩に追い抜かれたら辞めようと決めていましたので、その時が来たと感じました。当時監督を務めていた向井(昭吾)さんも退かれるタイミングだったので、辞めます、と」
ラグビーとはしばらく距離を置くつもりだった。
向井さんは、自分の決断は新しく指揮官のスポットに就く人に言った方がいいと言った。
その言葉に従い、ヘッドコーチ就任が決まっていたアンドリュー・マコーミックさんのもとを訪ねると、「はい、引退して大丈夫ですよ」と言われた。
そして、その直後に「(あなたには)コーチになってもらいます」と告げられた。
指導者・瀬川智広誕生の瞬間は、そんな感じだった。即答は保留したものの、「求めていただいたことが有り難かったので、あまり時間を取ることなく、やらせていただきますと伝えました」。
周囲からは、その素養があると見えたからコーチに指名されたのだろうが、コーチングを学んだことはなかったから苦労した。
年上の選手もいる。ヘッドコーチの意向をチームに浸透させようと思っても理論的にうまく落とし込めず、「果たすべき役目を果たせなかった」と回想する。
そんな状況を打破するために取り組んだのが、東芝ラグビーのマニュアルを一冊にまとめることだった。先輩で、のちに監督を務める薫田真広さん(現GM)の提案だった。
サインプレーの際の一人ひとりの動きや肝の部分。スクラムやラインアウトの独自理論などなど。自分たちのスタイルを言語化することで「頭が整理された」と思い出す。
もともと考える人だ。現役時代、スーパースターの村田さん相手にどう抗えば出場機会を得られるか考え続けた。
尊敬する先輩は抜群の身体能力を誇り、休みの日も個人練習に励む。決して手を抜くことがない。そんな人と勝負するには、違いを出すしかないと答が出た。
フィットネスなら勝てるかもしれない。FWを動かす技術を高めよう。声もよく出した。その結果、明治大学との日本選手権で先発し、国立競技場に立ったこともある。
第34回日本選手権。1997年2月11日におこなわれたその試合には、69-8と大勝した。
大舞台にそわそわして、試合前日に多摩川の河川敷で妻にパスの相手をしてもらったことを覚えている。いい思い出だ。
そんな選手の心の動きや、試合に出るための努力。それらすべての経験が、指導者となったときに役立った。
マコーミック ヘッドコーチ時代、薫田真広監督体制時にコーチとしてチームを支えた瀬川さんは、薫田監督退任のタイミング(2006年度終了時)で自分もチームから離れようと考えた。
しかし、そのタイミングでも自分の将来は決められていた。チームから「次期監督に」と言われて驚く。
「その時ばかりは、首を縦に振るのに時間がかかりました。だいぶ考えさせてもらいました」
「自分は参謀タイプでしたので」と理由を口にする。
「ヘッドコーチが描いた大きな絵を具現化することはできても、自分で立案し、チームを作っていくのは向いていないと思っていました」
2010年度シーズンまで大役を務めた。
2012年、請われて男子セブンズ日本代表のヘッドコーチに就任した。そこで実績を残したのは、ブレイブルーパスでコーチ、監督として積んだ経験が土台となり、瀬川さん自身の発想が花開いた結果だった。
2016年のリオデジャネイロ五輪では、メダルにもう一歩。ニュージーランド代表を破るビッグパフォーマンスを選手たちから引き出し、最終的には4位という好成績を残した。
4年に一度のスポーツの祭典で期待に応えることができた理由を、「例えばニュージーランドは、10回やって1回勝てるかどうかの相手。その1回のチャンスをオリンピックの時にどうやってぶつけるかを、チームとして全員で考え、共有できたから」と説明する。
ブレイブルーパスで長いシーズンを戦い、クライマックスにチーム力をピークに持っていった。頂上決戦で勝ち切った経験が世界の舞台でも生きた。
冒頭に現役引退時の話を書いたが、入団の経緯も愉快だ。大阪体育大学時代、当時の花岡監督に2度誘われたが、「教員になりますので、と2回ともお断りしました」という。
「しかし教員採用試験を受けた後、もし通らなければ来ないか、とまで言っていただけた。そんなにありがたい話はないと思い、『そこまで待っていただけるなら』とお伝えしました」
最終的には採用試験とは縁がなく、「結局お世話になりました」と笑う。
府中での生活すべてが良き想い出。そして、それらが四半世紀になる指導者としての力を支える血肉になっていると感じているからだ。
2020年の 4 月から摂南大学でラグビー部(関西大学Aリーグ)の監督を務め、授業も担当している。一人ひとりモチベーションが違う120人の部員を指導するのは、ブレイブルーパスのようなトップチームを指導することとは違うけれど、「以前と同じように、できる限りの準備をしたものを提供しています」。
可能な限り個々と向き合い、チームと個人が目指すところに到達できるようにサポートする日々を過ごす。
昨年日本ラグビーの頂点に立ったブレイブルーパスの試合は映像で必ずチェックし、チームが関西地区で試合をする時にはスタジアムに足を運ぶこともある。
ジョネ・ナイカブラ(ウイング)やルーキーの原渕修人(プロップ)など、摂南大OBで、現在の府中の空気を知る選手たちから、「みなさん人としてすごい」と、チームに関わる選手、スタッフの人間力への驚きの声が聞こえてくると、なんだか誇らしい。
「ラグビーに関しては、どんどん先に進んでいってほしいと思いますが、その部分については、いつまでも大事にしてほしい」と伝統の継承を望む。
信念の人。大学生を指導する上でも、いつまでも引き継がれるチームカルチャーを作るだろう。その一方で、常に新しいラグビーを創造する気概を持つ。
この人の足跡はすべてつながっていて、先へ先へと進んでゆく。
(文中敬称略)
(ライター:田村 一博)
第7節の引き分けの決着をつける大事な試合となりますので、是非会場で皆さまの熱いご声援をよろしくお願いします!!
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