早大競走部 箱根事後特集『蕾(つぼみ)』 第11回 相川賢人駅伝主務

チーム・協会
【早稲田スポーツ新聞会】取材・編集 指出華歩

 2年間にわたり、早大競走部の駅伝主務として、チームのために奔走(ほんそう)してきた相川賢人駅伝主務(スポ4=神奈川・生田)。東京箱根間往復大学駅伝(箱根)では、自身2度目となる運営管理車に乗り、仲間の姿を見守った。常にチームのことを第一に考え、行動してきた相川はどのように箱根を振り返るのか。そして、駅伝主務として駆け抜けた2年、早大で過ごした4年間を振り返って、今、思うこととはーー。

※この取材は1月25日に行われたものです。

2度目の運営管理車に乗って

箱根後の報告会にて話す相川 【早稲田スポーツ新聞会】

ーー箱根直前期のチームの雰囲気はいかがでしたか

 今年は、全員が万全な状態にすることを目標にしていて、メンバー16人はもちろん、選手35名全員が走れる状態で、チームの雰囲気も非常に良かったです。一昨年の年末は、体調不良で主力の北村さん(北村光、令6スポ卒=現ロジスティード)と伊藤大志(駅伝主将、スポ4=長野・佐久長聖)がインフルエンザにかかってしまい、出場できなかったことがあったので、感染対策などの緊張感もありながら、全員が順調に練習できていて、よい雰囲気だったと思います。

ーー伊藤大選手とはどのような会話がありましたか

 最後まで気を抜かずに万全な状態で迎えようという話はずっとありました。12月10日のメンバーが発表された時に、メンバーになれなかった選手とメンバーになった選手で箱根駅伝に向かう流れは少し変わります。ですので、少なからず、メンバー外の選手とメンバーとのモチベーションの差は、生まれてしまうこともよく分かると話していました。一方で、1年間全員で勝てるチームにしようという大志のスローガンがあった中で、全員で箱根駅伝に向かって戦わないと3位以内は取れないので、みんなで戦おうと話していました。

ーー復路には4年生が4人起用されました。往路を終えて、復路の選手に何か言葉はかけられましたか

 復路は、7区から4年生が4名タスキをつないだのですが、復路につなぐまでにあたっても、例えば、日野(斗馬、商4=愛媛・松山東)だと、2区と9区の給水に入ってもらっていて、1区と2区の当日の朝は、3時に起きて朝練をしていました。本当は、主務と監督だけで朝練習は対応できますし、日野は給水なので自分の時間に起きればいいはずです。それなのに、しっかりと1区、2区の朝練の時間に起きて、選手の状態を確認して送り出す日野の姿を見てきました。逆に、メンバー16人に入って、出走が叶わなかった草野(洸正、商4=埼玉・浦和)や和田(悠都、先理4=東京・早実)も、6区に選ばれた一吹(山﨑一吹、スポ2=福島・学法石川)を当日の朝、スタートする最後の最後までサポートしていました。(10人の出走)メンバーになれなかった4年生3人の姿も1月の2日3日ずっと見ていたので、4年生4人には、運営管理車から「日野、草野、和田も朝からしっかりサポートしてくれたから、走れなかった4年生の分の思いも背負って走れ」という声をかけました。

ーー​​その復路については、どのようにご覧になっていましたか

 4年生の走りは、区間順位だけで見れば、苦しい走りになって、本人たちも結果に対して責任を感じていると思います。走った選手以外の4年生も非常に悔しい思いを感じていました。逆に、往路の頼もしい選手たちがつないでくれたタスキを復路の4年生で噛み締めながら箱根路を走ってくれたというのは、非常に4年間やってきて、良かったかなと思います。

ーー総合4位という結果は率直にどのように感じていますか

 あと10秒少しということで、目標としていた3位以内には届かず、最初はすごく悔しい思いもありました。ただ、いざ走り終わった菅野(雄太、教4=埼玉・西武学園文理)の姿を見たり、走った10人はもちろん、スタッフや後輩たちを大手町で迎え入れたりした時に、ある意味その4位を肯定できるようなすごく良いチームができあがったなと感じました。もちろん最初は悔しかったのですが、「来年以降総合優勝を目指す」と監督や駅伝主将も頼もしいことを言っていますし、価値のある4位だったのかなと思います。

ーー運営管理車から見ていて、印象に残ったことはありますか

 運営管理者に乗るのは今年が2回目で、10時間ぐらい乗っていれば、退屈な時間があるのかなと思っていたのですが、そのようなことが本当になく、目が離せないワクワクするレースをしてくれたので、非常に楽しかったです。

ーー同期である4年生の走りはどのように感じましたか

 すごく感慨深いものがありました。皆個性豊かなキャラで、伊藤大志は、1年生の時から、キャプテンシーを持って、チームをつくってくれていました。昨年の箱根駅伝は走れなかったので、運営管理車から大志の走りを見たのは初めてで、大志の走りはかっこいいなと思いました。石塚(陽士、教4=東京・早実)も今年1年間はとても苦しんできて、出雲(出雲全日本大学選抜駅伝)、全日本(全日本大学駅伝対校選手権)と走れず、本人もいろいろな思いを抱えていました。最後まで箱根も使われないのではないかという恐怖もあったと思うのですが、自分の実力でメンバーを勝ち取って、胸を張って走ってくれたので、すごくよかったなと思います。伊福(陽太、政経4=京都・洛南)と菅野は、昨年も同じ区間で見ていました。伊福は、当日体調不良もあり、どうなるかとは思ったのですが、しっかり走り切れる強さを持っていました。菅野も、本当は後ろでついていっても良かったのに、しっかり前に出て、引っ張り続けてというところは、菅野の3位を取りたい意思がしっかりと伝わりました。そういった意味で、4年生4人の熱い走りは、走れなかった4年生3人も胸を張れるものだったと思います。(自分としても)4年間やっていて良かったと思えたと思うので、4年生に対しては、感慨深いものがありました。

――運営管理車に乗るのは、2回目でしたが、前回と変わったことはどはありましたか

 前回と違う点は、運営管理車からかける言葉です。昨年はいい言葉を声をかけられなかったので、今年は、何を話そうかなと年末あたりから考えていました。いざ実際に乗って声をかけるとなると展開もさまざまでしたし、伝えたいことも考えていたのですが、全部飛んでしまいました。「1年間ありがとう」という思いを皆に対して持ちながら、適宜声をかけれたのかなと思います。

――改めて、この1年間を振り返って、どのような1年間でしたか

 前回の箱根駅伝が終わった夜に、チームが全員同じ方向に向けていたのかという話を僕が(チームに)話した機会がありました。その時から自分が駅伝主務として、2年目をやるに当たって、チームから後ろ指を刺されるマネジャーではダメだと感じていました。1年間困難もあったのですが、同期とミーティングで話して、僕が思っている悩みやチームがどうするべきかということを4年生皆で話して、助け合いながら最後1年間を迎えられて、良い1年間だったと思います。

――幼いころから地元川崎で箱根駅伝を現地観戦していたとお聞きしました。相川さんにとって箱根駅伝はどのような舞台ですか

 今の日本の陸上界における箱根駅伝の存在は、非常に大きいと感じていて、多くの中高生が、箱根駅伝を目標にする、夢舞台だと思っています。一方で、自分がマネジャーになって大会を見てみると、本当にいろいろな人が関わっている大会だと分かりました。運営している関東学連(関東学生陸上競技連盟)もそうですし、各大学の監督や、チームスタッフ、走れないメンバー、走る10人、そして、いろいろなメディアの方がいて、箱根駅伝の魅力や価値が高められているなと感じます。夢舞台として感じていた魅力を実際に(スタッフとして)中に入っても感じて、よりいっそう魅力ある大会だなと感じました。

立場が変われど、成長を追い求めて

選手時代の相川 【早稲田スポーツ新聞会】

ーー一般入試からでも入部ができる早大で箱根駅伝を目指したかったということですが、改めて早稲田を目指された理由を教えていただけますか

 当時、高校2年生の時にコロナウイルスが流行ってしまって、部活が満足にできませんでした。自分が本当は何をしたいのかを考えた時に、僕自身も(まだ)競技を続けたいと思っていたので、学力などを見て考えた際に早稲田大学で競技したいなと思って、目指すことにしました。

ーー大学2年時にマネジャーに転向されました。そのきっかけや経緯についてお聞かせください

 大学1年生の頃からケガ続きで、いざ練習に参加してもみんなから離れてしまうことが多かったのですが、伊福だったら、昼ごはんを食べながら自分の練習メニューを相談してくれたり、菅野も走りのアドバイスをくれたり、別メニューをやっていた石塚も僕を追い抜く時に、声をかけてくれたり、自分が選手としてやっている中でも、すごく同期には支えられているなと感じていました。マネジャーになる時も、元々は選手でやりたかったという思いがあった中で、皆のために頑張りたいと思わせてくれた同期のおかげで、マネジャーをできたのかなと思います。

――駅伝監督が交代したタイミングでマネジャーへの転向を決意されたと思います。花田勝彦駅伝監督(平6人卒=滋賀・彦根東)にはどのような第一印象を持たれていましたか

 花田監督に初めて挨拶した時から、花田監督は柔和な喋り方をされていて、優しそうだなとは感じていました。いざマネジャーになって話すと、ご自身の経歴はすごいものを持っていますし、チームに対する思いもすごく感じました。花田さんとなら僕自身もマネジャーとして、選手から立場は変わりましたが、成長できるのではないかと感じ、頑張りたいなと思いました。

――花田監督はどのような存在ですか

 花田さんが就任されてから、(花田さんが)寮に泊まっていることも多いので、僕自身も寮で暮らしていていることもあって、家族よりも会う存在です。例えば、大会の宿泊の時には、同部屋の時もありましたし、時には、お酒を交わしながらチームのことを話しました。僕がチームとして活動していくにあたり、花田さんと話すことによって整理できたことも多く、花田さんのおかげでここまで部活を続けられて、成長できたと思います。

――花田監督からの声かけで印象に残っている言葉はありますか

 長距離のマネジャーと花田さんでご飯を食べに行った時のことなのですが、(花田さんが)「スタッフというのは選手よりも熱いチームへの思いがないと続けられないものかもしれない」ということを話されていて、その言葉がすごく印象に残っています。自分のために頑張るということがマネジャーではできないことで、チームファーストという考え方は、前提として必要になっていくことだと思います。逆に、チームのための存在がいれば、選手自身はある程度自分のために頑張れる方向性に向けると思いました。自分自身がマネジャーとしてやっていく意義というのを、改めてそこで考えさせられて、花田さんのこの何気なく言った一言が僕の中ではすごく印象に残っています。

――マネジャーへ転向するうえで、鈴木創士(令5スポ卒=現安川電機)選手の存在はやはり大きかったのでしょうか

 2年生に上がった4月頃にぼんやりとマネジャーに転向しようと考えていて、その時に1番に相談したのも創士さんでした。LINEをしたら、話を聞いてくれるということで、ご飯に連れていってもらって、話をしました。僕も創士さんとよいチームをつくっていきたいと思っていたので、創士さんのチームで勝ちたいとはすごく思っていました。

2年間務めた駅伝主務

レース中、選手に熱く声をかける相川 【早稲田スポーツ新聞会】

――3年時から駅伝主務を務めることになりました。当初はどのような心境だったのでしょうか 

 当時は4年生がいる中で、3年生で駅伝主務だったので、少しやりづらさがあるんだろうなとは感じていました。自分が3年生の時には、主将だった菖蒲さん(菖蒲敦司、令6スポ卒=現花王)もそうですし、4年生の学年の皆さんもすごく優しい方だったので、僕もマネジャーとして未熟だったのですが、1年間その4年生たちがつくるチームの中で、マネジャーとして成長できたらなと思っていました。3年生で少しやりづらさを感じそうになったのですが、(当時の)4年生のおかげで、成長することができたと思います。

――マネジャーのやりがいを教えてください 

 努力している人の近くにいられることは、自分のモチベーションになると感じています。僕自身、自分のためにしか頑張れない人間で、今までも自分のための人生選択をしてきたのですが、マネジャーになったらそんなに簡単なことではないなと感じて、誰かのために頑張ることが必要とされました。努力している選手を見ていると応援したいなという思いが湧きますし、自分にできることを探す場面や選手への感謝だったり、逆に選手とマネジャーの関係が成り立つ組織への感謝だったり、いろいろなものに対しての感謝が生まれたました。マネジャーになって、努力する人たちを見て、誰かのために頑張れるという自分にも気づけて、いろいろな人に感謝が生まれるというところは、マネジャーのやりがいなのかなと思います。

――逆に大変だったことは何ですか

 大変だったことは、主に時間です。例えば、忙しい日は、早朝から別で練習をして、その対応をしたと思ったら、車で帰ってきて、午前のポイント練習をやって、昼ごはんを食べたと思ったら午後の練習の対応をして。夜は、経理の仕事もやっていたので、せっかくの土曜日や日曜日という日も朝から晩まで部活漬けになってしまっていました。選手がある程度自分の時間をつくって、ゆったりとしているのを横目に見ながら部活に取り組むというのは、大変だとは思ってはいないのですが、時間の使い方的には、忙しかったと思います。

――マネジャーや駅伝主務を経験して一番得られたものは何ですか

 大手町でみんなと会った時の景色は、4年間やってこなければ、同じ景色は見られなかったと思っています。沿道から見る大手町と中で見る大手町は、全然違うものだと思います。4年間やってきたからこそ4年間一緒にやった同期と、この1年間頑張ってくれたチームの皆と、大手町で再会できたことは、自分の中で、すごく大切なものになりました。

――後輩のマネジャーに伝えたいことはありますか

 後輩のマネジャーは、僕の代は、長距離のスタッフだけで言えば、僕とトレーナーブロックの中田(歩夢、人4=埼玉・所沢北)の2人だけだったのですが、後輩に関して言えば、1個下は3人います。それぞれ仕事ができますし、熱い思いを持って部活をしています。特に3年生の3人は、スタッフ同士で関わる時間も多くて、1年間支えられてきました。そういう何気ない時間が減ってしまうのが寂しいのですが、3人で新しいチームを同期と一緒につくると思うので全然心配はなく、期待しかないですが、より良いスタッフの雰囲気をつくってほしいなと思います。

――改めて競走部での4年間を振り返って、どのような4年間でしたか

 この4年間は、長かったなと感じています。充実していてよく思うことなのですが、こんな行事が(たくさん)あったのにまだ1カ月しかたってないのか、みたいなことがよくあって、その連続のような感じでした。毎月いろいろな大会があって、いろいろな選手の走りを見てきました。練習であっても、皆の中では1つ1つ勝負で、質の高い練習をしている中で、それを支えてきたかたちでした。短く感じるのかなと思ったのですが、すごく長く感じるような濃い時間を過ごせたかなと思っています。

ーー伊藤大選手はどのような存在ですか

 よく大志の部屋に行って、僕がスタッフの中での悩みやチームに対しての悩みがあった時に大志と話すことが多かったです。すごく大志には、支えられたなと思いますし、大志は駅伝主将として1年間、僕たちの中では4年間引っ張ってくれて、大志にはすごく感謝しています。

ーー最後に、総合優勝を目指していく後輩たちへメッセージをお願いします

 頑張れの一言です。ただ、3位以内という目標を達成できなかったという部分では、悔いが残る結果ではあったので、そういった思いをせずさらに上を目指して頑張ってほしいです。応援しています!

ーーありがとうございました!

【早稲田スポーツ新聞会】

◆相川賢人(あいかわ・けんと)

2002(平14)年5月27日生まれ。神奈川・生田高出身。スポーツ科学部4年。4年間のチームに対する熱い思いを語ってくれた相川駅伝主務。寮での何気ない日常がとても好きだったそうで、残りの春休み期間は、同期との時間を楽しみたいそうです!

駅伝強化PJ 第2弾クラファン「箱根の頂点へ、世界へ」 ご支援よろしくお願いします!!!

【早稲田スポーツ新聞会】

  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

新着記事

編集部ピックアップ

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着コラム

コラム一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント