天皇杯・日本車いすバスケットボール選手権大会、熱闘の連続に見えた50回の軌跡
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大会の歴史を映す師弟対決
同チームで、前回MVPの丸山弘毅は、大会前から前所属チームの長野車椅子バスケットボールクラブ(長野WBC)と準々決勝で対戦することを楽しみにしていた。
「長野WBCには高校1年から在籍し、本当にお世話になりました。2018年に神奈川に移籍する際は『自分が決めたことならがんばれ』と送り出していただいて。以来、初の対戦となるので、先輩方に成長したパフォーマンスを見ていただきたいという思いが大きいですし、僕にとっては決勝以上にがんばりたい試合です」(丸山)
長野WBCは、1969年に創設。1971年の第2回大会から1975年の第4回大会まで3連覇した古豪で、今大会は久しぶりの出場となった。丸山が師と仰ぐ往年の名シューター、奥原明男が思い出深い大会として約20年前の大会を挙げる。
「たしか宮城MAXと3位決定戦で戦った年だったと思います。藤本怜央と得点王争いをしたんですよ。途中まで私がリードしてたので、もしかしてと思ったんですけど、怜央に抜かされちゃいました」(奥原)
現在、JWBF技術委員会委員長も務める奥原は、初戦の弟子のプレーを見て、愛あるダメ出しをする。
「昔はどんなことをしてもシュートを入れてくるスタープレーヤーがいたのですが、今は『自分が』っていうプレーヤーが少なくなっちゃったのが僕としてはさみしいです。弘毅のチームも仲良しこよしでボールを回してばかり。練習で自信のあるシュートを磨いて、ノーマークなら打てばいいし、そういうシューターになってほしい」
観客数は増えたが……
「ワールドBBCで日本選手権に出始めたのは、1996年か97年ごろじゃなかったかな。当時から変わったことといえば、お客さんがたくさん入るようになったことでしょうか。あと、プレーのスピード感も今の方があると思います」(大島)
「車いすに乗ってバスケットをする、という感じになると面白いと思うのですが、バスケットより車いすが先に立ってしまって、狭いところでプレーすることが多いのは、昔から変わってないなと思います。でもバスケットなんだから、本当はもっと5人のバランスを意識して、うまくスペースを使った戦い方ができるといいですよね。健常と同じバスケットをしたうえで、スクリーンやホールドといった車いすの特性を生かしたプレーができれば、観る人にもっと楽しんでもらえるのではないかなと思います」(大島)
初戦では当初、コート脇からチームを鼓舞していたが、途中から出場。司令塔としてチームに落ち着きを取り戻して勝利へと導いた。準々決勝のNO EXCUSE戦ではスタートから出場し、アグレッシブなプレーでチームをけん引していた。
11連覇を支えた“熱”
「僕が宮城MAXに入部したのは2002年で、藤本怜央と同期なんですよ。当時は藤井新悟が選手としてチームを熱く引っ張っていましたし、ローポインターでも怜央に負けたくないとがんばっている選手たちがいて、チーム内競争も激しかった。練習頻度も多くて、約束事をつくらなくても、流れの中で自然とうまく連携できていました」(高橋)
「千葉ホークスに負けて準優勝だったんです。でもあの悔しさが、2008年の初優勝とそこから始まる連覇につながったと思います」(高橋)
高橋は2022年に選手を引退し、代表兼ヘッドコーチに就任。2023年以来、2度目の舞台となった今大会は、初戦敗退となった。
「やはり緊張感は普通の大会とは違いますね。選手も緊張していましたが、自分もメンバーを出すのに点数オーバーしちゃいましたし、いやもう本当に選手のことばっかり言ってられないです。一から鍛え直しです」
text by TEAM A
photo by X-1
※本記事はパラサポWEBに2025年2月に掲載されたものです。
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