「NPB通算200勝」達成目前で足踏みした投手は?(田中将大、楽天を退団)

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東北楽天ゴールデンイーグルス、ニューヨーク・ヤンキースで活躍した右腕、田中将大がいままさに「野球人生」の正念場を迎えている。

田中将大、楽天から自由契約

11月24日、WBSCプレミア12のスーパーラウンド決勝戦(東京ドーム)で日本対台湾戦が行われる直前、田中将大は自らのYoutubeチャンネルで、
「楽天と来季の契約を結ばずに新たなチームを探すことを決めました」と明かし、楽天を退団する意向だと発表した。さらに「来シーズンはどこでプレーするかまだ分からない状態」と語った。
その後、12月2日、楽天の保留名簿に田中将大の名前はなく、正式に自由契約となった。

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田中将大、日米通算197勝

【非公式記録員 mmiyauchi】

田中将大は1988年、大阪府出身で、北海道・駒大苫小牧高校のエースとして2004年の夏の甲子園で優勝投手となり、2005年の夏大会では準優勝という実績を持ち、2006年のドラフトで、野村克也監督率いる楽天から1位指名を受け入団すると、2007年には高卒1年目ながら先発ローテーション入りを果たし、11勝を挙げ、パ・リーグの新人王を獲得。
2011年には19勝、防御率1.27、勝率.792で「投手三冠」を獲得、2013年にはシーズン24勝0敗、防御率1.27という成績で、星野仙一監督率いる楽天を球団創設初のリーグ優勝、日本一に導き、満票でシーズンMVPを受賞した。
田中は楽天入団から7年でシーズン二桁勝利6度、通算99勝35敗、防御率2.30という圧倒的な成績で、そのオフ、ポスティングでMLB移籍を表明。
ニューヨーク・ヤンキースと7年1億5500万ドルという大型契約を結んだ。

田中将大はヤンキースでも入団から6年連続でシーズン二桁勝利に到達、通算78勝を挙げ、ヤンキースの5度のポストシーズン進出、2019年の地区優勝に貢献した。

【非公式記録員 mmiyauchi】

だが、コロナ禍の2020年オフに古巣・楽天と、2年18億円プラス出来高という大型契約でNPBに電撃復帰。
2021年は先発ローテーションを守り、防御率3.01とまずまずの成績ながら打線の援護に恵まれず4勝9敗、2022年は防御率3.31ながらやはり9勝12敗、2023年は開幕投手を務めたものの、平均援護点は3.07点で、防御率4.91、7勝11敗と負け越した。
そのオフに「右肘関節鏡視下クリーニング術」を受けた影響で2024年開幕に出遅れると調整が思うように進まず、終盤になって9月28日のオリックス戦(楽天モバイルパーク)で一軍初登板を果たしたが、5回4失点で敗戦投手となり、わずか1試合の登板だけで未勝利でシーズンを終えた。

田中は日米通算18年で、422試合に登板、197勝114敗、防御率3.07という成績で、日米通算197勝と、投手の「名球会」入りの条件である200勝まであと3勝と迫っている。

【非公式記録員 mmiyauchi】

「88世代」の田中将大、復活のマウンドは

田中将大は1988年生まれで、いわゆる「88世代」を代表する投手であり、今年11月に36歳を迎えた。
田中将大の自由契約を受け、NPBの複数の球団のフロントや首脳陣からは田中の獲得に否定的、消極的な発言も見られた。
しかしながら、読売ジャイアンツの菅野智之も田中の1学年下、35歳の今季、見事な復活を果たし、先発の柱として15勝を挙げて、巨人の4年ぶりのリーグ優勝に貢献、シーズンMVPを獲得し、今オフに海外FA権を行使したMLB移籍を目指している。

また今季オフにFA権を行使したが去就が決まっていない投手たちもおり、またチームによっては春季キャンプ以降に故障で先発投手の不足となれば、場合によっては急転直下、獲得に動く球団があっても不思議ではない。
来季、田中将大がNPBで復活のマウンドに上がることができるか注目される。

通算200勝達成目前に苦しんだ投手は?

では、これまで通算200勝を目前にしながら足踏みして苦しんだ投手にはどんな投手がいただろうか。

それは戦中・戦後、巨人のエースで活躍した藤本英雄である。

藤本は通算199勝目を挙げてから200勝を挙げるまで実に1年以上の月日を要した。
藤本英雄の投手人生を振り返ってみよう。

藤本英雄、1950年に日本プロ野球初の「完全試合」を達成

藤本英雄は1918年に韓国・釜山に生まれ、旧制・下関商業からエース右腕として甲子園出場を果たし、明治大学を経て、1942年シーズン途中、9月に東京巨人軍に入団した。
明治大学野球部の投手としていまだに歴代最多となる34勝を挙げ、鳴り物入りでの職業野球入りだった。
藤本は1942年9月27日、後楽園球場での対大洋ホエールズ戦で公式戦初登板・初先発を果たし、初勝利を挙げるとそこから破竹の10連勝。新人投手がデビュー戦から無傷の10連勝というのはいまだに破られていない。

藤本は2年目の1943年5月22日、名古屋軍戦(後楽園)でノーヒットノーランを達成すると、その後、6試合連続完封を含む11連勝、さらに62イニング連続無失点と圧倒し、チーム84試合中の46試合に先発、34勝11敗、防御率0.73、253奪三振で「最多勝」・「最優秀防御率」・「最多奪三振」の「投手三冠」、さらに勝率.756で「最高勝率」を受賞、19完封もリーグ1位で、日本プロ野球史上3人目の「投手五冠」を達成した(1937年春の沢村栄治、1938年秋のヴィクトル・スタルヒンに次ぐ)(「最高殊勲選手」はリーグで唯一の打率三割打者であった呉昌征が選ばれた)。
藤本のシーズン防御率0.7319完封は現在も日本プロ野球記録として破られていない。

藤本は1944年、25歳で選手兼任監督に就任すると、投手ながら3番を打つ「三刀流」の活躍を見せ(25歳での監督就任はいまだに日本プロ野球史上最年少記録)、1945年の職業野球リーグ戦の中断を挟み、1946年はチーム2位の21勝を挙げ、防御率2.11で自身2度目となる「最優秀防御率」のタイトルを獲得したが、巨人軍フロントとの軋轢から1947年に中部日本ドラゴンズ(現・中日ドラゴンズ)へ移籍、17勝を挙げ、防御率1.83(リーグ2位)を記録、中部日本の2位躍進の原動力となった。

1948年に巨人の三原修総監督の要請で巨人に復帰。前年に痛めた右肩の影響で当初は主に外野手として出場していたが、今度は足を故障し、投手へ復帰。外野手に転向している間に右肩は回復、球威は落ちたものの、スライダーを習得して復活した。
1949年にはラビットボールの導入で、投手の成績が軒並み悪化する中で、藤本はただ一人、防御率1点台(1.94)を記録、自身3度目の「最優秀防御率」のタイトルを獲得し、リーグ2位の24勝を挙げて、2年連続の20勝超えに到達。
1950年6月28日の対西日本パイレーツ戦(青森)では腹痛を起こした多田文久三に代わって先発を務め、日本プロ野球史上初の完全試合を達成。
この年も26勝(リーグ3位)、防御率2.44(同2位)とエースの活躍を見せた。
藤本は1949年から1953年まで5年連続でシーズン15勝以上と、巨人の黄金時代を支えた。

一方、藤本は打撃のよい投手としても知られ、1944年には野手兼任で規定打席に到達して、打率.268でリーグ9位、1950年のシーズンには7本塁打を放ち、2014年に北海道日本ハムファイターズの大谷翔平が、投打「二刀流」で11勝、10本塁打を放つまで、NPBでは長らく投手としてのシーズン最多本塁打記録であった。
藤本の通算打撃成績は公式戦では通算312安打、打率.245、15本塁打、151打点、日本シリーズでも19打数6安打、打率.316という記録を残している。

藤本英雄の通算200勝へカウントダウン、故障で暗雲

【非公式記録員 mmiyauchi】

藤本は1953年9月23日、対名古屋ドラゴンズ戦(中日球場)では9回1失点の完投勝利でシーズン16勝目、通算197勝目を挙げ、10月3日の同じく対名古屋戦(川崎球場)では6回被安打1、無失点でシーズン17勝目、通算198勝目を挙げた。
藤本は35歳のシーズンでも17勝6敗、リーグ2位の防御率2.08の好成績を挙げ、5年連続となるシーズン15勝以上をマークし、翌シーズンの早い段階で、日本プロ野球史上6人目となる通算200勝は時間の問題と思われていた。

しかし、翌1954年、藤本は指のケガで出遅れてしまう。
5月27日、富山県営球場での対松竹大洋ロビンス戦でようやくシーズン初登板・初先発を果たし、7回を投げ、被安打7、1奪三振、1四球、2失点でシーズン初勝利を挙げ、通算199勝とした。

そして、藤本にとってここから苦難の始まりだった。
満を持して6月12日、通算200勝を懸けて後楽園球場での対大阪タイガース戦に先発登板した。この日、後楽園球場には43,500人もの観客が集まった。
しかし、藤本は初回、タイガースの一番打者・金田正泰に先頭打者ホームランを浴びるなど2点を失い、2回も9番・投手の山中雅博にタイムリー安打を浴び、3点目を失ったところで、2回で降板。
藤本の通算200勝達成はお預けとなった。

続いて藤本は7月14日、対松竹大洋ロビンス戦にシーズン3度目の先発マウンドに上がったが、洋竹の目時春雄に一発を浴びるなど、3回を投げて被安打4、2失点と奮わず、降板(味方が逆転して負けはつかず)、さらに2週間後の7月28日、大阪球場での対大阪タイガース戦では初回、タイガース打線につかまり、4番・藤村富美男の先制3ランホームランを浴びたところであえなくノックアウトとなった。

続いて藤本に通算200勝達成のチャンスが訪れたのは約2か月後の9月23日、広島総合球場での対広島カープ戦。
広島先発の大田垣喜夫と息詰まる投手戦となり、6回を終えて、共に0対0。
巨人は7回の攻撃、6番・岩本堯が大田垣から先制の2ランホームランを放ち、ついに均衡を破った。
しかし、広島は0対2と2点差を追う8回1死、続投する藤本から代打・長持栄吉が起死回生となる2点タイムリー二塁打を放ち、2対2の同点に追いつくと、藤本はここで降板。
藤本は通算200勝達成に「4度目の正直」はならないまま、巨人は1954年のシーズンを終えた。

37歳の藤本英雄、通算200勝を懸けた「最後のマウンド」

翌1955年、シーズンが始まっても、藤本の右肩の状態は思わしくなかった。
5月に37歳を迎えても、一軍での登板機会は巡ってこなかった。

水原円裕(水原茂)監督率いる巨人は6月からほぼ独走態勢に入り、10月7日、横浜ゲーリック球場での対国鉄スワローズ戦のダブルヘッダー第2試合で3対2でサヨナラ勝ちし、2位・中日が大阪での対阪神戦のダブルヘッダー第2試合に敗れたため、巨人は2年ぶり4度目のセ・リーグ優勝を達成した。

10月11日、巨人はこの時点でシーズンの残り試合が5試合となったが、和歌山県営球場で対広島カープ戦のダブルヘッダーを控えていた。

初戦は巨人の先発、大友工と広島は途中からエースの長谷川良平の投げ合いとなり、どちらの投手も勝てば30勝目という投手戦だったが、巨人が2対1で勝利し、大友工が30勝。
続く第2試合、巨人の先発は入団2年目、20歳の堀内庄
堀内はプロに入って4度目の先発だが、プロ未勝利であったが、この日は4回表まで広島打線をノーヒットに抑えるというかつてない好投を見せた。
するとその裏、巨人打線は一挙7点を挙げる怒涛の攻撃で、堀内のプロ初勝利を援護した。
堀内はあと1イニング投げれば勝利投手の権利を得るところだが、5回表、広島の攻撃を迎えたところで、巨人の水原円裕監督がダグアウトを出て、公式記録員に話しかけた。
そして、直後に球審の有津佳奈馬に向き直って「ピッチャー、藤本」と告げた。

水原監督は公式記録員に藤本が5回から登板すれば勝ち投手になることをわざわざ確認してから交代を告げたのだ。

藤本英雄にとって約1年ぶりとなる一軍公式戦でのマウンドである。

藤本はすでに速球は鳴りを潜めていたが、大量リードと向かい風を味方につけ、カーブを多投した打たせて取る投球で、広島打線から凡打の山を築いてった。
藤本の偉業達成をなんとか助けたい巨人ナインの再三の好守にも助けられ、
許したヒットは2番・銭村健四の単打だけで、8回まで無失点の好投。
そして、巨人が7対0のリードで迎え、広島の攻撃は9回裏二死、3番・長持栄吉を迎えた。

思い起こせば、ちょうど1年前、藤本が通算200勝を懸けた「4度目の正直」となったマウンドで、最後に立ちはだかり、藤本の勝ち星を消したのはこの長持だった。
しかし、藤本は最後の打者・長持を無事に打ち取り、ゲームセット。
5回を投げ、被安打1、無失点という文句なしの投球内容だった。

巨人が9対0で広島に勝利し、藤本英雄はついに悲願の通算200勝を達成した。
1954年5月27日に通算199勝目を挙げてから、この日、通算200勝を挙げるまで実に502日もかかった。
そして、藤本にとってこの367試合目の登板が現役最後の登板となった。
(この試合が行われた和歌山県営球場も、プロ野球公式戦開催はこの試合が最後となった)。

藤本英雄、通算200勝ちょうどで現役引退

これまで通算200勝を挙げた投手は、NPB通算200勝が24人、NPBとMLBで日米通算200勝を挙げた野茂英雄黒田博樹ダルビッシュ有の3人を含めて計27人、生まれているが、通算200勝ちょうどで現役を引退したのは藤本英雄ただ一人しかいない。

藤本英雄は実働13年で367試合に登板、うち290試合に先発して、200勝87敗、防御率1.90。
獲得したタイトルは最多勝は1度(1943年)だけだが、最優秀防御率は3度(1943年・1946年・1949年)、最高勝率も3度(1943年、1946年、1949年)、表彰ではないが「最多奪三振」は2度(1943年、1944年)、1943年には1949年には沢村賞とベストナインを受賞している。
藤本の通算勝率.697通算防御率1.90は、NPBで2000投球回以上を投げた投手の中ではいまだに破られない歴代最高記録である。

【非公式記録員 mmiyauchi】

【参考文献】
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