「子どもたちの変化や成長の瞬間を目の当たりに」パラリンピック教育を続ける理由
【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
『I’mPOSSIBLE』は、東京パラリンピックが開催された2021年9月までに14万件以上のダウンロードを記録。その後、2024年3月のアニメーション教材の追加などにより、教育現場のデジタル化にも対応したICT教材としても使用されています。
積極的にこの教材を取り入れてパラリンピックの授業を行うのはなぜなのか。アニメーション教材で授業を行った木更津市立木更津第二中学校の菅野元治先生のインタビューから、授業を通して「共生社会」について考える子どもたちの学びの様子に迫ります。
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【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
教材の名前『I’mPOSSIBLE』は、「不可能(Impossible)」という単語に、アポストロフィ(’)を加えた造語で、「私は、できる」という意味があります。「できないこと」ではなく、「どうすればできるようになるか」を考え、行動できる子どもたちを増やしたいという思いが込められています。
教師用指導案や投影用スライド、ワークシートなどがセットになっており、パラリンピック・パラスポーツについて教えたことがない先生も、事前準備の手間なく効果的な授業ができるのが特長。2024年3月には、共生社会の実現に向けて「気づき、考え、行動を起こす」力を育むための教材として、新たにアニメーション教材が追加されました。
※初版教材は、ベネッセこども基金の協力を得て公益財団法人日本パラスポーツ協会日本パラリンピック委員会(JPC)と日本財団パラスポーツサポートセンターが共同で開発し、2017~2020年にかけて全国の小中高特別支援学校など約36,000校に無償配布されました。現在はJPCが教材の開発・普及をしており、『I’mPOSSIBLE』日本版公式サイト上で無償で利用できます。
目の前で子どもたちが変わっていく授業。やらない理由はない
菅野先生(以下菅野) 清見台小学校にいたときに千葉県のオリパラ教育推進校に選ばれ、何をしようかと考えていたとき、学校に届いた『I’mPOSSIBLE』日本版の案内を見て使ってみたのがきっかけです。2019年ごろですね。とてもいい授業ができたので魅力を感じ、のめり込んでいきました。そこから継続しています。
――その授業実践により、在籍していた清見台小学校が東京2020パラリンピックでI’mPOSSIBLEアワード開催国最優秀賞を受賞してから約3年。現在は中学で教えられているんですね。
菅野 もともと中学・高校の保健体育が専門ですが、小学校教論の免許も持っているため清見台小学校に着任し、そのときに『I’mPOSSIBLE』を使った授業を行い、教材を活用して「共生社会の実現に向け最も優れた取組を行った日本の学校」として受賞しました。その後、2022年に現在の中学校に移りました。
『I’mPOSSIBLE』は中学生・高校生版もあるので、中学校に異動してすぐに取り入れ、今年で3年目になります。東京2020パラリンピックの映像を見せると、「自分の国でこんなすごい大会が開かれたんだ」と改めて実感がわき、生徒も興味をもってくれます。
日本財団パラスポーツサポートセンター(当時の名称は日本財団パラリンピックサポートセンター)の支援により、国際パラリンピック委員会が設立したI’mPOSSIBLE アワード。東京2020パラリンピック閉会式で授賞式が行われ、菅野先生(右から2人目)が当時在籍していた木更津市立清見台小学校は開催国最優秀賞を受賞しました 【photo by Takashi Okui】
菅野 一番はやはり子どもたちの変化ですね。授業をしていて目の前の子どもたちの感想がどんどん変化し、大切なことにおのずと気づいていく。これほど変化や成長の瞬間を目の当たりにできることはなかなかありません。教材には授業に必要なものがすべて揃っていて、事前準備に時間をかけることもなく、どんな教員でもパラスポーツを入口に、障がい・福祉・共生社会といったテーマについての深い授業をすることができます。
バリアフリーを自分ごとに、さまざまな角度から考える
菅野 今回授業を行ったのは、「パラリンピアンの日常生活からバリアフリーを考える」というテーマのユニットです。障がいのあるアスリートが学校を訪問する、という設定から、そのパラアスリートの日常生活に目を向け、バリアフリーについて考える授業です。1人につき1台のデジタル端末を使用しました。
初めに「社会の中のバリアフリーの例」をグループごとに話し合いました。「何だろう?スロープとか?」「自販機のボタンが低いところにあるものもあるよ」「ほかにあるかな?」 と、思いつくものを挙げてくれました。
4人ずつのグループに分かれて、町にあるバリアフリーの施設や設備の例を考えます 【photo by Takashi Okui】
菅野 はい。全体に発表した後、アニメーション教材の前半を視聴しました。このアニメーションの中で、バリアフリーについて問題提起がなされます。「気づきにくいバリア」です。
【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
競技場の中で活躍するパラリンピアンも、日常生活で困ったことに遭遇することも。パラスポーツを出発点に、視点を変えてみます 【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
この「気づきにくいバリア」というキーワードについてグループで話し合いをし、「バリアフリーなのだけれどもうまく役割を果たせていない例」を挙げていきました。
エレベーターに着目したグループ。せっかくエレベーターを設置してもボタンが押しにくい位置についていたとしたら…… 【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
菅野 そうですね。続いて、アニメーション教材の後半を視聴して、もう一つ重要な視点を学びます。障がいのある人が困っていたら手伝うのは大切だけど、障がいがあるからできないと一方的に考えてしまう「思い込み」や「先入観」もバリアになりうること、何に困っているかは人それぞれちがうことなどがコンパクトにわかりやすく説明されています。
【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
具体的な場面も、アニメーションでより理解しやすくなります 【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
自分たちにできることについて考える生徒のみなさん。クラスメイトと意見を出し合うことで、気づきも広がっていきます 【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
ICTによって議論が深まり、学びも深まる
菅野 授業はとてもやりやすくなりましたね。わかりやすいシチュエーションの中に、「目に見えないバリア」など大事なワードもちゃんと盛り込まれていて、生徒の理解が深まるように作られていました。そうしたワードを教員が教えたり、生徒に自然に気づかせたりしようとすると、もっと時間が必要です。アニメーションなら理解しやすく、共通のイメージがもてるので、話し合う課題についてもすぐ理解して活発なディスカッションに入ることができました。
――確かに、話し合いではどのグループもすぐに意見が出ていましたね。グループワークでは各自デジタル端末に意見を入力していくなど、ICTも活用されていました。
菅野 Googleジャムボードというアプリで使っていて、ひとつのワークシートに複数人で同時に入力することができます。誰かが入力するとすぐにほかの生徒の端末にも反映されてリアクションができるので、話し合いが活発に進んでいきますね。社会科などほかの授業でもよく使っているアプリということで、生徒たちも慣れています。ふだん挙手や発言が少ない生徒も、端末ならどんどん入力してアイデアを表現できますし、誰かがすぐ反応して議論が広がるという体験はやはりうれしいようです。また端末を介することで、あまり話したことがない相手とでもコミュニケーションがとりやすくなるといった長所もありますね。
GIGAスクール構想の推進等により、学校現場に急速に普及したデジタル端末。活用の仕方次第で、授業をよりスムーズに進め、生徒の活発な議論と深い学びにつながることが、今回の授業からも感じられます 【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
菅野 押しつけられたものではなく、自ら体験して気づくことには大きな価値がありますよね。清見台小学校で『I’mPOSSIBLE』を使った授業をやっていたとき、後日児童が横断歩道で白杖を使用されていた高齢の方に「何か手伝いますか?」と声をかけていたことを、地域の方が教えてくれました。本人は授業を意識したわけではないと話していましたが、それこそさっと行動できるというのは本当に身についているということかなと思います。今回授業を受けた中学3年生も、これからいろいろな人と関わって成長していく中で、アクションを起こせる大人になっていってほしいですね。
――授業後の生徒の感想にはどのようなものがありましたか?
菅野 (バリアフリーや無意識の先入観について)自分がこれまで知らなかったということに、少しショックを受けている部分もあったようです。その気持ちが、知らないことはよくないからもっと知りたい、ほかの人にも伝えていきたい、といった感想につながっていました。また、自分にできることを考えたい、実行したいという感想も出ていました。
授業をきっかけに社会が変わっていくかもしれない
菅野 はい、今後も継続的にやっていきたいです。保健体育で「パラリンピックって何だろう?」のユニットに取り組んでパラリンピックについて生徒に知ってもらい、興味をもてばさらにユニットを進めていくのもいいかと思います。最初のきっかけを与えるのは大人の大切な役割ですよね。オリンピックはみんな知っていますし、そこからパラリンピック、パラスポーツのことにつなげていけます。パラリンピックについて知ると「本当にすごい!」という驚きがあるので、生徒は興味をもちますよ。 東京2020パラリンピックを経て、パラスポーツやパラリンピックが共通のワードとしてみんなにインプットされているので、ここからが本当に学校で教えることの真価が発揮されるフェーズだと思います。教材を使ったことがないかたには、ぜひ使ってみてほしいです。こんなにも子どもの成長や変化を目の当たりにできる授業はなかなかありません。活用しないのは本当にもったいないです。
――学校では福祉の授業で障がいについて学ぶ場面が多いようですが、その際にもパラリンピックやパラスポーツを入口にすることに意味がありそうですね。
菅野 総合的な学習の時間に福祉関係のことを扱いたいという場合は、『I’mPOSSIBLE』を使うチャンスだと思います。福祉体験をするというのも定番ではありますが、体験するだけで時間が終わってしまったり、障がいのある人は大変なんだという感想で終わってしまったりといったことも起こりがちです。福祉体験はあくまできっかけとして、もっと深いところまで学んでほしいと思うと、やはりこうした教材の力を借りるのがいいと思います。福祉体験の前後に座学で『I’mPOSSIBLE』をはさんでもいいですね。
共生社会につながる学びの入り口として、パラリンピック・パラスポーツを扱う意義を強調する菅野先生 【写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局】
菅野 いきなり共生社会について考えましょうと言われても、言葉がひとり歩きしてしまうと思うんです。今回の授業では共生社会という言葉を使っていませんが、そのエッセンスはむしろしっかりと伝わったと思っています。大事なのは用語ではなく、その概念がすんなりと頭の中や心の中に入っていくこと。小学生や中学生に伝えていくことの意味もここにあります。授業後の感想では、共生という言葉こそ出ていなくても、社会の中で多様な人がよりよく生活していくための本質的なことがたくさん挙げられていました。素直に吸収できるこの年代だからこそ、こうして種をまくことが後々の社会のあり方につながっていくと思います。
――ここで学んだことをきっかけに、これからの日常や学校生活の中で生かしてほしい視点や、深めてほしい観点はありますか?
菅野 生きていくうえで誰ともかかわらないことは無理ですよね。誰かと関わるには相手のことを知ったり考えたりすることが絶対に必要です。障がいも含めて人それぞれに目を向けられるようになれば、もう少し寛容になれるのではないかなと思います。いろいろな人がいると知ることが大切。どんなにデジタル技術が発達しても、ベースは人と人とのつながりです。「相手のことを知り、相手のことを思いやる」という本質はぜひ実践していってほしいです。
――多感な時期に大切なことを学んだ子どもたちの、これからの成長が楽しみですね。
菅野 パラスポーツやパラリンピックを出発点に、いろいろな人のことを理解するマインドをもった子どもたちの成長は本当に楽しみですし、心強いですね。この授業をきっかけに社会が変わっていくかもしれないという大きな可能性があると思います。
I’mPOSSIBLEアワードを受賞したとき小学生だった教え子たちは、もう高校生になっていますが、今でもあの時の授業が楽しかったと話してくれますよ。素直で、何事も一生懸命やろうという感覚を変わらず持ち続けています。いい成長のしかたをしていると感じますね。
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パラリンピック・パラスポーツから得られる学びの可能性を強調する菅野先生の言葉は、東京2020パラリンピックをきっかけとして、共生社会について考え続けていくことの意義を感じさせます。教育、学びといったレガシーは、現在進行形で子どもたちや社会の未来に価値あるものをもたらしているのかもしれません。
text by Ayako Takeuchi
写真・資料提供:日本パラリンピック委員会『I’mPOSSIBLE』日本版事務局
※本記事はパラサポWEBに2024年7月に掲載されたものです。
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