橋本聖子東京オリ・パラ組織委員会会長インタビュー スポーツ界の社会貢献が問われる時代に

笹川スポーツ財団
チーム・協会

【フォート・キシモト】

1964年10月5日生まれの橋本聖子さんは、その5日後に開幕したアジアで初めて灯された東京オリンピックの聖火にちなんで名づけられました。オリンピックの申し子として、スピードスケートで冬季オリンピックに4回、自転車競技で夏季オリンピックに3回出場するなど、日本を代表するアスリートとして活躍されました。

また、現役競技選手と国会議員という二足の草鞋を履き、国会内でも女性が働きやすい環境を整えるなど、常に新しい道を切り拓いてきたパイオニア的存在でもあります。東京オリンピック・パラリンピック担当大臣、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(以下、組織委員会)会長として安心・安全な大会開催の実現に奔走した橋本さんにお話をうかがいました。


聞き手/佐野慎輔
文/斎藤寿子
写真/フォート・キシモト、橋本聖子
※本記事は、2022年4月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。

自分の言葉で綴ったスピーチに込められた思い

東京2020パラリンピック閉会式での挨拶。(2021年/国立競技場) 【フォート・キシモト】

東京2020オリンピック・パラリンピックが無事に開催され、橋本さんとしては大役を果たされたわけですが、改めてどのようなお気持ちでしょうか?

実は、組織委員会のそれぞれの部署から報告書をあげてもらっているところで、私としてはまだ東京オリンピック・パラリンピックが完全には終わっていない状況にあります。大会経費については2021年12月22日に現時点における見通しを発表いたしましたが、引き続き、収入確保に努めながら、今年春ごろまでかかる競技会場の仮設撤去・原状回復工事や、観客数の取り扱いを踏まえた契約の見直しなどの作業に懸命に取り組んでいるところです。それを踏まえたうえで収支決算報告書が作成されて初めて、東京オリンピック・パラリンピックの成功と言えるのではないかと考えています。そして、これからレガシーをどのように継承し、どういう形で発信していくのかということもありますので、大会が終わってからのほうが重要だと思っています。組織委員会は時限的な組織で、2022年6月を目途に解散する予定です。その後、どの分野のレガシーを、どこが引き継いでくれるのか、解散の前にその振り分けもしなければいけません。ほとんどの部分は文部科学省とスポーツ庁が継承先になるとは思うのですが、例えば「復興オリンピック・パラリンピック」を掲げて取り組んできた部分においては復興庁にお願いをすることになると思いますし、「多様性と調和」ということも含めて街づくりにおけるバリアフリーの推進については国土交通省、あるいは食文化については農林水産省というふうに、しっかりと引き継いでいただけるようにしたいと思っています。また無観客ではありましたが、「多様性と調和」や「ジェンダー平等」など、さまざまなことを発信できた大会でもありましたので「あの日本に行ってみたい」という人は世界中にいると思います。そういう方たちを、今後どのようにして日本に呼びこむのか、という部分では観光庁に取り組んでいただきたいと思っています。ただ省庁ごとにレガシーを引き継ぐというよりも、横ぐしを入れる形ですべての省庁がひとつとなり、「東京モデル」というレガシーを継承していくことが理想だと考えていますので、今はその作業に追われているところです。

1年延期とされ、コロナ禍で開催された東京2020オリンピック・パラリンピックでは、当初の計画通りにはいかなかったこともたくさんあったかと思います。

2013年9月7日に東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定して以降、約8年間、準備にあたってきたわけですが、IOC(国際オリンピック委員会)が定める「オリンピック憲章」や、IPC(国際パラリンピック委員会)が定める規定が非常に厳格であるため、やりたいと思ってもできなかったことがたくさんありました。それはスポンサー企業も同様だったと思います。
例えば「『識別標示』とは物品製造者の名前、名称、商標、ロゴ、そのほかの特徴的な標示の標準的な標示を指します。それぞれの物品には2つ以上の識別表示を付けてはならない」などと細かく定められているため、思うようなことが成し遂げられなかったことが多々あったのではないかと思います。そのような規定の部分でも、今大会で気づいたことはひとつの改革案としてIOCに提案していきたいと考えています。
また、東京オリンピック・パラリンピックは新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて1年延期となり、収束の見通しが立たないなかでの開催となりました。開催に対して厳しい意見が多くあがっていた当時の状況を考えれば、無観客という判断は正解だったと思います。

ただ、実際はしっかりとコロナ対策が講じられていましたので、大会関連施設ほど安全な場所はなかったようにも思います。観客の皆さんが入場していたとしても、きっと日本の皆さんはしっかりとルールを守ってくれたと思いますし、組織委員会では、人流が生じても感染者を出さないようにするための「プレイブック」を制作していました。しかし、無理にことを進めて選手たちに影響が及んでしまっては元も子もありませんので断念しました。本来は史上最高の観客数を誇れたと思いますし、その観客たちを十分に楽しませるための"見せ方"にも工夫を凝らした方法を準備していましたので、それを披露することができなかったことは残念でなりませんでした。

東京2020オリンピック・パラリンピックでは、開閉会式での橋本さんの言葉が非常に印象的でした。スピーチには、どんな思いが込められていたのでしょうか?

組織委員会会長として非常に大きな責任のある仕事のひとつが、開閉会式のスピーチだと考えていました。これまでオリンピックの開閉会式では、選手あるいは日本選手団団長としてフィールドから、歴代のIOC会長や、開催都市の組織委員会会長のスピーチを聞いていたのですが、何かちょっと言葉を発すると会場から歓声と拍手が沸き起こって盛り上がるというのがお決まりでした。歓声でスピーチの言葉が聞こえないこともしばしばあったほどです。
ところが、東京オリンピック開幕まで15日に迫った2021年7月8日に、東京、神奈川、埼玉、千葉の1都3県の会場は、すべて無観客での開催ということが決定しました。つまり、今大会にはいつも盛り上げてくれていた観客がいないという状況でのスピーチでしたので、かえって一つひとつの言葉をじっくりと聞くことになるのだろうと思いました。東京オリンピック・パラリンピックに対する印象や評価は、私のスピーチの言葉の善し悪しで大きく変わってしまうかもしれないと思うほど、責任の重みを感じていました。そこで、東京オリンピックが始まって、東京パラリンピックが終わるまでの一連の流れを"旅"と考え、まずは開幕する前の気持ちを東京オリンピックの開会式で述べました。
それから東京オリンピックの大会期間中、毎日競技会場をまわって選手たちの姿を目にしたり、ボランティアの皆さんと触れ合ったりするなかで感じたことを東京オリンピックの閉会式でお話をすると同時に、次に迎える大事な大会である東京パラリンピックに向けての気持ちを伝えました。そして最後に、東京パラリンピックの大会期間中に感じたことを閉会式で述べたわけですが、どの原稿も本番ぎりぎりまで感じたことをメモしながら作成しました。組織委員会には広報や秘書という部署がありましたので、通常、何か発言をする際には原稿のたたき台が用意されるものなのですが、開閉会式のスピーチの原稿だけはすべて自分で書きました。自分自身から湧き出てくる感情を大事にしたいと思ったのです。

現役時代には夏冬あわせてオリンピックに7回出場するなど長い間世界のトップアスリートとして活躍され、引退後には冬季では2010年バンクーバーオリンピック、2014年ソチオリンピック、夏季では2016年リオデジャネイロオリンピックで日本代表選手団団長を務められました。さまざまな立場でオリンピックに携わってきた橋本さんだからこその深みのあるスピーチだったと思います。

実は本番でのスピーチ時間は決められていまして、4回のスピーチのうち最も長い時間をいただけたのが東京オリンピックの開会式で6分半ほどでした。そのほか、東京オリンピックの閉会式は5分、東京パラリンピックの開会式は4分半、東京パラリンピックの閉会式は4分強と配分されていましたので、その時間におさまるようにそれぞれの原稿を用意していました。実際ストップウオッチで測って練習もしました。ところが、東京オリンピックで同じ6分半の尺だったはずのトーマス・バッハIOC会長のスピーチが倍の12分に及んだんです。バッハ会長の隣でスピーチを聞きながら「あれ、時間大丈夫かな」と実はやきもきしていました(笑)。

圧倒されたパラリンピックで目にしたあるべき社会の姿

東京2020パラリンピック・陸上ユニバーサルリレー決勝、第3走者の高松佑圭選手(右)とアンカーの鈴木朋樹選手。(2021年/国立競技場) 【フォート・キシモト】

東京2020オリンピック・パラリンピックは原則無観客で行われましたが、これは歴史上初めてのこと。開幕前は果たして盛り上がるのだろうかと不安視する声もありました。しかし、実際には無観客であるという寂しさを感じさせないほど、選手たちのパフォーマンスはすばらしかったと思います。特に初めて目にした人たちが多くいた東京パラリンピックの評価は非常に高かったと思いますが、橋本会長はどのように感じられたでしょうか?

私自身、パラリンピックの運営に携わることが初めての経験でしたし、パラリンピック競技を生で見たのは冬季大会の1998年長野パラリンピック以来で、夏季大会では初めてのことでした。もちろん各大会で、結果を伝える報道や映像を目にする機会はありましたし、国内で行われる予選会には会場に足を運んだことも何度かありました。しかし、パラリンピックという本番の舞台を見たのは、長野パラリンピック以来とブランクがあったものですから、「ここまで競技レベルが上がっているんだ」と正直驚きました。もうひとつは、私たちの想像をはるかに超えたレベルで限界を突き破ってきたアスリートたちなんだなということを感じました。東京オリンピックは私自身が現役時代にも経験してきた世界でもありましたので、「コロナ禍でもしっかりとオリンピックの価値を伝えることができた大会になる」と想定していたことを体現できたことに安堵していました。一方、東京パラリンピックは想像をはるかに超えた、とにかく圧倒された大会でした。選手たちにも、支える人たちにも、私が考えていた数段上の覚悟があるように思いました。また「このパラリンピックには、国がやるべき政策課題がすべて詰まっている。これをしっかりと取り組めば、日本は世界のトップランナーになれる」というふうにも感じました。スポーツというひとつの芸術でありながら、子どもたちの教育にもなるものだと。東京パラリンピックの閉会式のスピーチでも「パラリンピアンの皆さんの圧倒的パフォーマンスに、心が震えました」と述べましたが、パラリンピック選手たちのパフォーマンスを見ながら「この圧倒的なものを、これからの日本は支えていくことができる社会をつくっていかなければいけない」と強く感じました。

これからの日本社会がどうあるべきか、その姿を東京パラリンピックが示してくれました。

選手村の村長を務められた川淵三郎さんは、東京オリンピック・パラリンピックの期間中、ずっと選手村を見て回ってくださっていたのですが、パラリンピック期間中、さまざまな障がいのある選手たちが選手村で生活している様子に、「こういう風景は、生まれて初めて見た」と、とても驚かれていました。例えば、白杖を持った視覚障がい者を道案内している人も腕に障がいがある人だったり、片脚切断の人が義足を履かずに片足跳びで移動していたりと、ふだん私たちは目にしないけれど、パラリンピアンにとってはふつうの生活スタイルが営まれていたんです。川淵さんは「この年齢にしてこれだけ驚くということは、いかにこの風景が日本社会において当たり前ではなかったということ。これはぜひ教材にして、子どもたちに知ってもらいたいなぁ」とおっしゃっていて、私も大賛成でした。なぜなら、これから日本がめざすべき社会そのものだと感じたからです。そういう社会モデルを子どもたちに見せることで、当たり前の社会として根付かせたいと思いました。
東京パラリンピック後、実際にどういう形だったらIOCやIPCが定める共生社会実現のための基準をクリアできるのか模索し、なんとか実現の目途がたったところです。考えてみれば、オリンピック・パラリンピック教育は2014年からスタートしたわけですが、当時小学1年生だった子どもは、今では中学2年生になっているんですよね。そうすると、その子どもたちにとってパラリンピックは当たり前に認知されていて、例えば義足や車いすについても、それ自体に壁を感じることなく、その人が快適に生活するためのひとつのツールなんだと、自然と考えられていると思うんです。そしてバリアフリーについても、障がいのある人たちのためだけではなく、私たち人間誰もが年齢を重ねれば足腰が弱くなり、ちょっとした段差でも転倒してしまう危険があるのだから、みんなが快適に生活するために必要なことだという認識があるはずです。こういう子どもたちが今後も増えていけば、私たちが選手村で見た風景が当たり前の社会になっていくのだろうと思います。

東京2020オリンピックの選手村村長を務めた川淵三郎氏(右)と。(2021年/晴海) 【フォート・キシモト】

東京2020オリンピック・パラリンピックのレガシーについては、どのように考えていらっしゃいますか?

東京オリンピック・パラリンピックが無事に開催されて本当に良かったと思っていますが、それで終わりでは何にもなりません。将来にわたって、今回の東京オリンピック・パラリンピックはどんな意味があったのか、どんなターニングポイントとなったのか、ということを後世の人に伝えていかなければなりません。そこで今、理念法ではあるのですが、議員立法で法案を残そうと考えています。コロナ禍のなか、東京オリンピック・パラリンピックが安心安全に開催された背景には何があったのか。そして「多様性と調和」「共生社会」「ユニバーサルデザイン」といった、東京オリンピック・パラリンピックで示されためざすべき社会のあり方、こうした健全な社会こそが、心身の健康をつくり、ひいては健康寿命の延伸にもつながるというようなことを盛り込もうと思っています。東京オリンピック・パラリンピックに向けて、この8年間で取り組んできたことを残すことで、持続的推進へと繋げるものにしたいと考えています。2019年には東京オリンピック・パラリンピックのレガシーを将来に生かすため、政府内に「レガシー推進室」が設置されました。それが今後は、内閣官房にある東京オリンピック・パラリンピック推進本部の後継組織となる予定ですので、そこがきちんと受け継いでいけるように、超党派のスポーツ議員連盟での発案にしたいと考えています。オリンピック・パラリンピックのレガシーを法律にして残す取り組みをした国は今までないと思いますので、世界で初めての取り組みとしてIOCにも伝えたいと思っています。

使命感で引き受けた開幕5カ月前の組織委員会会長への打診

リオデジャネイロオリンピックでは日本選手団団長を務めた(中央)。 【フォート・キシモト】

コロナ禍での東京2020オリンピック・パラリンピック開催については、開幕前には中止や延期の声が多くありました。そうした意見を持った人たちに対しての答えとして、オリンピック・パラリンピックを開催する意義を示すことはできたのでしょうか

これまで何回か日本選手団団長を務めさせていただいたこともあって、以前から「なぜオリンピック・パラリンピックは存在するのか」「なぜオリンピックはこれだけ人々を魅了するのだろうか」ということを調査してきました。東京オリンピック・パラリンピックも、コロナ禍の前は賛同の声が多くありました。2019年12月に内閣府が行った「東京2020オリンピック・パラリンピックに関する世論調査」では、開催について「日本にとって良いことだと思う」と答えた人は85.5%にのぼりました。それだけ多くの方が、東京オリンピック・パラリンピックを楽しみにしてくださっていたのだと思います。
一方、どの大会でもおよそ3割の人たちはオリンピック・パラリンピック開催を良く思っていないという調査結果が出ていますが、ならばその3割の人たちにどのようにしてオリンピック・パラリンピックの魅力を伝えていけばいいのか、ということが課題とされてきました。調べてみると、3割のうち1割は「オリンピック・パラリンピックは好きだが、国民に大きな負担をかけてまで自国開催をする必要はない」という考えの人たちでした。もう1割の人たちは「そもそもそんな大会は必要ない」という考えの人たちで、残り1割は「反対だけれど、実際には見る」という人たちでした。さらに調べていくと、実際に自国でオリンピック・パラリンピックを開催すると、反対していた人たちのなかから「開催して良かった」と、考えが変わる人たちがいました。ただし、その逆もしかりで入れ替えが起こるので、割合的には変化はないというのが、過去のオリンピック・パラリンピックでの調査結果でした。そう考えますと、「そもそも必要ない」というスポーツにまったく興味がない人たちを除いて、2割の人たちはふだんほかのスポーツを見ていたり、あるいは自分自身がスポーツをしていたりと、それなりにスポーツに興味がある人たちなんですね。そういう人たちにオリンピック・パラリンピックの開催意義を伝えていけるかということが重要だと感じました。どの大会でもそうした結論が出ていたわけですが、コロナ禍での東京オリンピック・パラリンピックにおいては、どの世論調査においても5割以上の人が「中止すべき」あるいは「開催することに不安がある」と答えています。また2021年1月に共同通信社が行った世論調査では、「中止すべきだ」(35.3%)「再延期すべきだ」(44.8%)をあわせて、8割以上の人が反対意見であるという結果が出ました。しかし、私自身はそうした状況を冷静に捉えていました。なぜなら、反対の声をあげている人たちのなかには、もともとは賛成だった人たちがたくさんいるということはわかっていたからです。
では、なぜ今大会は反対なのかと言えば、ひとつは新型コロナウイルス感染症への対策に不満と不安を持っていたからで、そのストレスを東京オリンピック・パラリンピックに向けることで、安心感を得たいという気持ちもあったのだと思います。そして、メディアも不安を煽るような報道を続けることで、国民の関心をひいていたところがありました。そういうなかで、私たちはもともとオリンピック・パラリンピックに興味を持ってくださっていた人たちに「これだったら開催しても大丈夫だろう」という安心感を抱いてもらえるように、地道に努力を重ねていくしかありませんでした。会見などで私の消極的な態度に「もっと強く主張すべきだ」という声もあったのですが、私としては無理に戦う姿勢を見せれば、かえって反発されるだろうと思っていましたので、とにかく「自分の仕事は、開催を実現させることだ」と言い聞かせて準備に専念しました。もちろん開幕前にもできる限りの理解していただける努力はしましたが、最終的には感染拡大を防ぐ大会を実践することで理解をしていただくしか方法はないと考えていました。

橋本さんは「ストレスをかわすことが得意だ」とおっしゃっていますが、今回のストレスはどのようにしてかわされたのでしょうか?

メディアも含めてすべての国民の気持ちを、全身で受け止めようという思いでいました。選手、スタッフ、ボランティアなどの人たちのストレスになってはいけませんので、国民のマイナス感情の矛先が、東京オリンピック・パラリンピック自体に向かないよう、すべて組織委員会会長である私のところに向くようにしたいと思いました。ただ、実際にはなかなか難しかったなと反省しています。私自身が責められることはぜんぜん構わなかったんです。政治に身を置いていれば、反対意見や責められることなど日常茶飯事。もちろん聞く耳は持っていますが、一つひとつ気にしてストレスに感じるということはありません。とにかく大会開催を実現させることが、森喜朗前会長から引き継いだ最重要業務と思っていました。

コロナ禍というだけでなく、開幕前にはさまざまな問題が起きました。森さんの女性蔑視ともとれる発言で、東京オリンピック開幕まで半年を切ったなか、会長が交代するという事態となりました。そして東京オリンピック開会式・閉会式の式典・演出チームでも過去の言動が問題視されて、辞任が相次ぎました。こうしたさまざまなことが、国民の組織委員会への不信感を募らせていったのだと思いますが、もっと国民に丁寧に説明をしたり、情報を開示することによってあそこまでの騒動には至らなかったのではないかと思います。

対応については、いろいろと反省しなければいけない点はあります。ただ、すべての情報をオープンにすると、問題とされた人が一層世間の批判にさらされてしまう可能性がありました。実際、数十年前の過去にまで遡っての言動や映像を調べ上げられて、次々と世間にさらされる状況でしたので、なかなかそこで説明をしたり情報を開示するというようなことができませんでした。もちろん組織委員会としては、私自身に対しても含めて、関係者の身体検査はきちんとしていました。しかし、プライベートなこともありますので、メディアがしたような何十年以上も昔のことまでは調べることなどはできませんでしたし、正直メディアに対しては「そこまでするのか」と驚きました。どこまで調べて、どこまでオープンにすればいいのかは、本当に頭を悩ませたところです。東京オリンピック・パラリンピックをうまく運営していくために、組織委員会としては結構細かく身体検査をしたつもりでした。ただ、いくら情報開示が重要だとはいえ、どんな人にもこれからがあります。とはいえ、世間はやめさせなければ納得はいかなかったと思いますので、その人の将来の部分までも傷つけることなく、どうやって辞任の方向にもっていくべきなのかということには苦心しました。

森喜朗前大会組織委員会会長。 【フォート・キシモト】

森前会長が自らの発言の責任をとって、2021年2月12日に組織委員会会長を辞任することを表明したのを受けて、組織委員会では「候補者検討委員会」が設置されました。そこで後任の会長に選ばれたのが橋本さんだったわけですが、その経緯について改めて教えてください。

森前会長が辞任をするとなった時には、すでに東京オリンピック開幕まで5カ月に迫っていましたので、当時東京オリンピック・パラリンピック担当大臣の立場としても「これは一日でも早く後任を決めてもらわないと困るな」と思いながら毎日のように報道されるニュースを見ていました。そうしたところ「候補者検討委員会」(以下、検討委員会)で私の名前が出ているということを耳にしたわけですが、ただ政治家が組織委員会のトップに立つということは特に何か規定が定められているわけではなかったもののタブー視されていたようなところがあったんです。ところが、過去の大会を調べてみると、例えばセバスチャン・コー氏(現・国際陸上競技連盟会長)は上院議員のまま2012年ロンドンオリンピック・パラリンピック組織委員会会長を務めていました。「それならば、問題はないだろう」ということで検討委員会において私に一本化して、打診するという流れだったようです。正直、打診を受けてから悩む時間はありませんでした。すぐに菅義偉首相(当時)に相談に行ったところ「誰かがやらなければいけないのであれば、あなたが一番適任なのでは」と言っていただいたので、もうその場で大臣の辞職願を出しました。それが受理されたあと、組織委員会の理事会にはかられて決定しました。「火中の栗拾い」というようなことも言われましたが、私自身がさまざまな立場でオリンピックに関わってきましたので、どれだけ東京オリンピック・パラリンピックが重要だということかはわかっていましたし、使命感もありました。それと「こんな大変な役回りを、ほかの誰かにお願いするのはあまりにも酷なことだ」とも思っていたんです。その人が辛い思いをするのを見るのは嫌だな、それならば、自分でやったほうがよっぽど楽だろうと思いました。ですので、組織委員会の会長に就任することに対しては「私でよければ」という思いでした。ただ東京オリンピック・パラリンピック担当大臣と同時に、女性活躍担当大臣として男女共同参画を推し進めていくためにやり遂げたいことがたくさんあっただけに、道半ばで手を離さなければいけなかったことについては本当に残念でなりませんでした。それでもふだんから一緒になって事業を進めてきた丸川珠代さんが後任となってくれましたので、立場は変わっても一緒にやっていこうということで安心してバトンを渡すことができました。

橋本氏の後任のオリンピック・パラリンピック 担当大臣に就任した丸川珠代氏。(2021年/東京) 【フォート・キシモト】

会長就任直後の2月末には組織委員会内に事務総長直轄の「ジェンダー平等推進チーム」を設け、小谷実可子スポーツディレクターがチーム・ヘッドとなって改革に取り組まれました。3月には組織委員会の女性理事を12人に増やし、女性の比率を42%にまで引き上げました。

男女共同参画担当大臣を務めていた時に最も重要視していたのは、「世界が日本をどう見ているか」でした。女性活躍の面では、いまだ日本は世界から非常に遅れている国だ、と見られているというのが実情です。2021年3月に世界経済フォーラムが公表した「ジェンダー・ギャップ指数」では、日本は156カ国中120位と先進国のなかで最低レベル、アジア諸国のなかでも韓国や中国、ASEAN諸国より低い結果となっています。そうしたなかで、森前会長の後任を務めるのはどういう人物なのかと世界から注目されていて、日本を見てもらえるチャンスでもあると思いましたので、「日本はやっぱり女性活躍の点で遅れている国だな」とは思われないようにしなければなりません。そのため、女性理事を増やしたことについては「単なる数合わせではないか」という批判もありましたが、女性の比率が42%という数字で示すことでインパクトを与えられたのではないかと思います。
実際、世界からの反響は大きかったです。今後さまざまな組織や社会で意識改革が進められていくきっかけになっていくことを期待しています。

病気によって人生観が変わり、身についた耐える強さ

幼少時のプライベート写真。父・善吉氏(右)と。 【本人提供】

橋本さんは、1964年10月5日に北海道勇払郡早来町(現・安平町早来)で生まれ、その5日後にアジアで初めて開催された東京オリンピックの聖火にちなんで、お父さまが「聖子」と名付けたというのはあまりにも有名な話です。

私の父はスポーツが大好きな人で、東京オリンピックにも強い思いを抱いていました。どうしても自分の母親、私の祖母に開会式を見せたいということで、北海道から上京して、国立競技場で開会式を見ているんです。もちろん開会式のチケットは人気でしたから、相当苦労をして取ったようですが、実際には3枚取れたんだそうです。当時、祖母は足を悪くしていて、歩くのもやっとのような状態でしたので、父が祖母を背負って行ったのですが、地元の女医さんも帯同することになって、3人で上京したんです。
開会式で聖火リレーの最終ランナーとして国立競技場の聖火台に火を灯した坂井義則さんは、第二次世界大戦末期の1945年8月6日、世界で初めて広島県に原爆が投下されたその日に広島県三次市で生まれた方でした。「戦後復興と平和」の象徴として選ばれたということを知った父は深く感銘を受け、それで生まれた自分の子どもをオリンピック選手に育てたいという考えで、女の子だったものですから「聖子」と名付けたそうです。そうした自分の名前の由来については、幼少時から何度も父に聞かされてきましたので、小学校にあがる前から「自分はオリンピック選手になる」と言っていたのですが、ただオリンピックがどういうものなのかはわかっていませんでした。初めてオリンピックを見たのは、小学校1年生のときの札幌オリンピック(1972年)でした。実際に見に行くことはできず、テレビでの観戦だったのですが、大会期間中に開閉会式が行われた真駒内公園のスピードスケート競技場に連れて行ってもらい、そこに置かれた聖火台に灯る火を遠くから見ることができました。

初めて触れたオリンピックは、いかがでしたか?

北海道では誰もが遊びでスケートをやるのですが、私も3歳からスピードスケートをやっていまして、慣れ親しんできたスピードスケートがオリンピックの種目にあるんだということを札幌オリンピックを見て知りました。当時、地元ではスピードスケート男子500mの鈴木恵一さん(元日本スケート連盟理事)にメダルの期待が寄せられていました。だから小学1年生の私も、鈴木さんが金メダルを獲るものだとばかり思っていたんです。あとから聞いた話では、鈴木さんは29歳になっていて、すでに全盛期を過ぎていらしたということだったのですが、日本選手団の主将を務め、選手宣誓もされていて、すごく大きな期待を寄せられていたんです。ところが、コーナーで失敗をして、19位に終わったんです。それが、子どもながらにしてすごく残念に感じたのを覚えています。一方、それまで遊びでやっていたスピードスケートが、競技として行われているのを見て、「あ、この競技を続けていけば、オリンピックに行けるんだ」と思いました。もちろん、予選を勝ち抜かなければいけない厳しい舞台であるということは、小学1年生の私にはまだぜんぜんわかっていませんでしたが、何となく自分がめざすオリンピックがイメージできるようになったのは、札幌オリンピックの影響が大きかったです。父にお願いをして、小学校2年生でスポーツ少年団に入れてもらい、本格的にスピードスケートを始めました。

札幌オリンピックのスピードスケート日本男子代表・鈴木恵一選手。 【フォート・キシモト】

ところが、小学校3年生の時に腎臓病を患われました。スピードスケートを諦めなければいけないというようなことはなかったのでしょうか?

小学校3年生の春に腎臓病になり、入院自体は2カ月ほどだったのですが、療養生活は小学4年生の夏休みが明けるくらいまで続きました。その間、学校は午前中の授業だけ受けて、お昼に迎えに来てもらい、午後からは自宅で療養するというようなことをしていました。両親は心のなかでは「もうスピードスケートは無理だろう」と思っていたと思います。私自身は何もわからなかったですね。当時はとにかく塩分はいっさい禁止という食事制限が辛いということが一番にあっただけで、腎臓病の怖さみたいなものはわかってはいませんでした。療養をして元気になれば、きっとまたスピードスケートができるのだろうと考えていたと思います。

入院中には辛い経験もされたようですね。

苫小牧市立病院に入院していたのですが、小児病棟には同じくらいの年齢の子どもたちがたくさんいまして、そのなかで同じ年齢の女の子と友だちになりました。今考えますと、その病院は当時としては珍しい取り組みをしていて、北海道大学のインターンの学生が塾のようにして、学校に行けない私たちに週に何度か勉強を見てくれたんです。そのほか、週に2、3回ほど、おやつの時間の前に子どもたち同士の交流会があって、ベッドから起き上がれるような子どもたちが、寝たきりの子どもたちの病室に行って紙芝居やトランプをして一緒に遊ぶというような時間がありました。その時、「あの子は治らない病気なんだよ」ということを聞かされて「同じ年齢で、そんなに大変な病気をしている子どもがいるんだ」ということを知ったのですが、その女の子も大病を患っていたんです。その子の病室に行くのが辛く感じたりしたこともあったのですが、当の本人はすごく明るくて、私たちが病室から出る時には、いつも笑顔で見送ってくれました。その子が、ある日突然亡くなってしまったんです。その時に、「あの子は、みんなと会うのがいつ最後になってもいいように、いつも笑顔でいたんだよ」ということを聞かされて、子どもながらにして人生観が変わりました。「自分と同じ9歳という年齢の子どもが、こんなふうにして死んでしまうことがあるんだ」と。健康でいることが、どれだけ人間にとって幸せなことなのか、というふうに考えるようになってからは、食事制限が辛いとは思わなくなりました。

そうした病気になったことによって人生観が変わったことが、競技で過酷なトレーニングをするうえでも大きく影響したのでしょうか?

もちろんトレーニングは苦しいのですが、入院生活や食事制限をすることに比べたら何でもないと思えました。耐えることに対して苦に思わなくなったのですが、一方では、自分を追い込むことができるようになってしまったということでもありました。それで高校3年生の秋口に腎臓病が再発しかけて、まだ若いというのに体にむくみが出てきたんです。小学校の時には「急性なので再発することはないだろう」と言われていたのですが、完治していなかったのだと思います。それとのちに検査でわかったのですが、私は生まれつき腎臓機能が弱かったようなんです。それで「このまま放っておけば、完全に再発してしまう」ということで、また入院せざるを得なくなってしまいました。実は、翌シーズンにはレークプラシッドオリンピック(アメリカ)を控えていて、私自身は確実に出場できると思っていました。しかし、腎臓病が再発すればもう出場できないと思い詰め、今でいう「PTSD」(心的外傷後ストレス障がい)により「呼吸筋不全症」を発症してしまいました。ストレスによって呼吸する際に必要な筋肉が動かなくなってしまったんです。そのためちょっと上半身を起こしていないと呼吸することができなくて、180度体を横にして寝ると完全に呼吸が止まってしまうという状態のなか、酸素マスクで呼吸しながらの入院生活を余儀なくされました。とてもオリンピックどころではなく、諦めざるを得ませんでした。

その状態から、スピードスケートで冬季オリンピックに4回、自転車競技で夏季オリンピックにも3回出場と活躍するまでに至ったのには、何が要因していたのでしょうか?

シンプルに病気をしたからだったと思います。もし健康な状態で過ごしていたら、苦しい思いをしてまでオリンピックに7回も出場しよう、なんてことは考えなかったと思います。でも、大きな病気を患ったことで、自分なりに人間の限界を知ることができたのではないかと思います。入院中は本当に苦しくて、最終的に肺活量は元には戻りませんでした。それでも工夫をしながらトレーニングを続けるという、ふつうだったらやらないことをしてきたのは、病気をしたことによって辛いことに耐えられるようになったからだと思います。

世界に影響を受けて挑戦した冬夏大会出場

初出場を果たしたサラエボオリンピック。(1984年/ボスニア・ヘルツェゴヴィナ) 【フォート・キシモト】

橋本さんといえば、冬夏両方のオリンピックに出場した先駆者でもあります。スピードスケート選手として、1984年サラエボオリンピック、1988年カルガリーオリンピックと冬季大会に出場したあと、自転車競技に転向し、夏季大会にも出場すると宣言した時には驚きました。実際、1988年ソウルオリンピックに出場を果たし、その後も冬夏両方のオリンピックで活躍されました。

スピードスケート選手の私が、自転車競技で夏のオリンピックに出場する意向を示した際、世間からは驚きや批判の声があがりましたが、私自身は「なぜ冬と夏と両方に出てはいけないのだろう」と不思議でした。「急にほかの競技から来た選手が、ずっと努力を重ねてきた選手の出場を阻むのか」というご意見もあったのですが、私からすればオリンピックは予選で勝った選手が行くことができる舞台です。だったら、勝った私がなぜ行ってはいけないのだろうかと、釈然としませんでした。と同時に、「だから日本は世界に勝てないんだ」とも思っていました。日本はまだスポーツ界では世界水準に達していない国なんだなと痛感しました。私自身は、初出場のサラエボオリンピックでも、その次のカルガリーオリンピックでも、本気でメダルを狙っていました。ところが、周りは「ウインタースポーツで日本人がメダルを獲ることは無理」という考えの人ばかりで、「ああ、このなかで世界と戦っていくのは大変だな」と思いました。なにしろ国際大会に行けば、スポーツ先進国にはチームドクターや、栄養バランスを考えたメニューを提供するために栄養士やコックを帯同していたりしているのを目の当たりにする一方で、日本はトレーナーさえも帯同できないレベルでした。「これは殻を破っていかないと勝てないな」と思いました。ところが、今も一部ではそうだと思いますが、選手が言いたいことを言えるような時代ではありませんでしたので、日本では選手が強くなるために、世界と対抗するために「こうしたい」というような主張をしても"わがまま"ととらえられがちだったところがありました。「連盟に強い主張をしたらつぶされる」というようなことがささやかれていて、殻を破りたくても、破れない選手がたくさんいたのです。

私は史上最年少の高校1年生でスピードスケート日本代表として世界選手権に出場していましたので、10代のころから先輩たちが言いたいことも言えずに苦労しているのをずっと見てきていました。それでずっと「どうしたら自分が言いたいことを言える選手になれるだろうか」というようなことを考えていました。「まずはこの選手の主張は聞かないといけない、と思われるような選手にならなければ、いつまでたっても改革はできないだろう」と考えました。もうひとつは「アスリートとしてだけでなく、人として、ふだんから人に認められた存在でないといけないだろう」ということも思っていました。この2つがあって初めて話を聞いてくれるのではないかと思いましたので、世界に通用する競技力と、他人から認められるだけの人間力を備えようということで、懸命に練習すると同時に、ふだんから人に尽くす行動をとることを心がけていました。まずは自分自身を改革するところから始めて、それを成績につなげ、最終的には日本のスポーツ界全体について選手がきちんと主張できるような風通しのいい環境にすることをめざしていました。

ソウルオリンピックでは自転車競技に出場。(1988年/蚕室競輪場) 【フォート・キシモト】

現役時代からそのように日本のスポーツ界の未来を考えていらしたことが、政治家の道を志すきっかけとなったのでしょうか?

それはあったと思います。世界を見わたしますと、政治家になっている元アスリートがとても多いんですよね。選挙制度が違うこともありますので単純に比較することはできないのですが、ロシアでは現在、10人ほどもオリンピックのメダリストが政治家として活躍しています。

そもそもスピードスケート選手だった橋本さんが、自転車競技の選手として夏季オリンピックをめざそうと思ったきっかけとは何だったのでしょうか?

最初に憧れたのは、エリック・ハイデンというアメリカ代表の選手でした。彼は、自国開催となった1980年レークプラシッドオリンピックで、スピードスケートの500m、1000m、1500m、5000m、10000mと出場した全5種目でオリンピック新記録を樹立し、史上初めて1大会で金メダル5個を獲得したんです。その後、一度は現役を引退し、大学の医学部に進学するのですが、途中で休学して、今度は自転車競技の選手に転向してロードレースに出場し、活躍するんです。その後はまた医学部に戻るわけですが、そんな彼の姿を見て、「私もあんなふうにスピードスケートでも自転車競技でも活躍できる選手になりたい」と思ったのが自転車競技を始めたきっかけでした。

レークプラシッドオリンピックで5つの金メダル獲得したエリック・ハイデン選手。(1980年/米・ニューヨーク州) 【フォート・キシモト】

そして身近な選手では、クリスタ・ルディング・ローテンブルガーという旧ドイツ出身の選手の影響が大きかったですね。高校1年生から毎年、世界選手権に出場していましたので、そこで世界の情報を得ていたのですが、1988年カルガリーオリンピックの2年前くらいにローテンブルガーがスピードスケートで冬季のカルガリーオリンピックに出場したあと、同年開催だった夏季のソウルオリンピックにも自転車競技で出場しようとしているということを耳にしたんです。もともとハイデンに憧れて自転車を始めていましたので「私も挑戦してみよう」と思って、すぐにカルガリーオリンピック、ソウルオリンピックの両方に出場するための準備に取りかかりました。ローテンブルガーの影響は、現役引退後の人生にも大きくありました。彼女は現役中に結婚をして、出産後に現役に復帰して、1992年アルベールビルオリンピックでは500mで銅メダルを獲得したすごい選手なのですが、さらに大学に通いながら地元ドレスデン(ドイツ)の市議会議員もやっていたんです。今でこそ日本でもお子さんを持つ女性アスリートや、現役中に大学に通うというような選手も出てきていますが、当時は日本では現役選手がそんなふうに何役もこなすというようなことは、まったく考えられないことでした。

カルガリーオリンピックでのクリスタ・ルディング・ローテンブルガー選手。(1988年/カナダ・アルバータ州) 【フォート・キシモト】

競技と国会との二足の草鞋を選択した理由

第192回国会参議院代表質問に立つ橋本氏。(2016年/東京) 【2016年/東京】

橋本さんご自身も、1995年に自由民主党(以下、自民党)から参議院選挙に出馬し、現役選手として国会議員になりました。

当時、私は30歳で翌年の1996年アトランタオリンピックをめざしていた身でしたし、女性ということもあってメディアからはひどくバッシングを受けました。それでも出馬を決めたのは、「政治家が理解しないと社会の改革は進まない」と考えていたからです。スポーツは生活の一部であり、経済・社会の営みであるはずなのに、当時は、政治とスポーツを切り離そうとする意識が強くありました。でも実際は、共同体なんですよね。そういう意味で、日本のスポーツ界がこれだけ先進国から遅れを取っているのは、やはり政治家に理解されていないからなのだろうと思います。日本人の何かひとつのことを極める、という精神はとても美しいと思いますが、その一方で自由にやりたいことをやっている海外のアスリートを見ていると、日本の窮屈さを感じることが多々ありました。この風潮を変えていくには、自分が政治家となって日本スポーツ界の改革に着手することが重要なのではないかという思いで、立候補する決意をしました。

当時の自民党幹事長だった森喜朗さんから打診を受けたというのは、どのようないきさつがあったのでしょうか?

日本は何をするにも前例を重んじるのですが、私がしてきたことはほとんど前例のない初めてのことばかりで、それだけに国会の内外から風当たりは強かったです。ただ私は海外を見てきましたので、「なぜ現役アスリートが、国会議員になってはいけないのか」と不思議でなりませんでした。ハイデンやローテンブルガーのように、競技をしながら大学で勉強をしたり、母親として子育てをしたり、あるいは市議会議員になったりと、アスリートという枠を超えて活躍するような選手が日本でも出てくるには、政治から関心を寄せてもらわないといけないのだろうなと思っていました。ちょうどそんな時に、森先生から出馬の話をいただいたんです。もちろん、迷いがなかったわけではありません。実は、私の姉の夫も衆議院議員(故高橋辰夫氏)で、義兄からは「競技人生をまっとうしたあとに、自分の後継者になってほしい」と言われていましたので、ゆくゆくは地元の選挙区から衆議院議員として出馬する心の準備をしていました。そのことが風のうわさで、当時自民党の幹事長を務めていた森先生の耳に入り、それでお話があったということでした。

1998年には同じ北海道出身の石崎勝彦さんとご結婚をされて、母親となられました。

実は国会議員になってから結婚をしたという女性議員は、私が初めてのケースだったんです。結婚すること自体、周囲からは驚かれたのですが、国会議員で出産するという時の周囲の反応はさらに驚くものでした。現職の国会議員の出産は50年ぶりで2人目だったようで、参議院議員としては私が初めてでした。前例がないことばかりでしたので、最初は大変なことが多くありました。たとえば、当時は参議院議員が欠席を認められる理由は、「公務」「病気」「事故」の3つで、「出産」という項目はありませんでした。そこで超党派でご協力をいただきながら、議員運営委員会で参議院規則を改正し、欠席届に「出産」という項目を追加することができました。当時、少子高齢化が進むなかで育児休業制度が整備されていたものの、実社会では女性が出産や子育てで休業し、復職することに対して、なかなか理解が進んでいませんでした。制度はあっても、それを利用することはできないという女性が多かったと思います。さらに国会では「片手間で国会議員はできないのだから、出産するなら離職するべき」と、より厳しい目で見られていました。だから私も出産後、1週間で職場復帰しました。しかし、「国会議員こそ、自らが産休を実践すべきではないのか」という声も多く聞かれました。そういうなかで、欠席届に「出産」を追加したことで、事実上、国会議員が産休制度を利用することが認められたというのは大きな一歩でした。

社会に還元したいスポーツの価値

札幌オリンピック開会式。(1972年/真駒内屋外競技場) 【フォート・キシモト】

さて、札幌市では、2030年のオリンピック・パラリンピックの招致をめざしています。これについては、いかがでしょうか?

札幌オリンピック・パラリンピックについては、何を目的として開催するのかというところをしっかりと示すことができれば、札幌市民、北海道道民、国民に支持されると思います。今のところ、立候補都市のなかでも最有力視されていますので、どんなビジョンを掲げるのか、国民にわかりやすいビジョンを掲げることができるのか、というところが決め手になると考えています。

スポーツ界出身の政治家として、取り組んでこられたことがたくさんありますね。どのような感慨をお持ちですか?

森先生を筆頭にして、社会的にスポーツの価値を高める政治活動を行ってきた先生方にいろいろと教わってきたわけですが、私が参議院議員に初めて当選した当初は、まだオリンピックも国民体育大会も単なる趣味や娯楽の延長としか見られていませんでした。また、日本スポーツ界全体が企業に頼るしかなかったという状態でもありました。それがいわゆる"スポーツ族"と言われている政治家の皆さんのお力添えで、徐々に国家事業としてスポーツが捉えられるようになってきたという流れがありました。その大きなきっかけとなったのが、1990年代に起こったバブル崩壊です。日本の景気が良かった時には、多くの企業が自社にチームを抱え、選手を雇用し、育成しました。そのためオリンピックに出場するにしても、企業におんぶに抱っこ状態だったんです。ところが、バブル崩壊となって景気が悪化したとたんに、多くの企業がチーム活動を廃止し、スポーツから撤退してしまいました。その時に「これではまずい」ということで、国会でも議論が交わされるようになりました。また、2004年アテネオリンピックのあとには、当時の小泉純一郎首相にスポーツ界の実情を聞いていただき、アスリートの競技力向上の中核施設としてのナショナルトレーニングセンターの建設、2007年オープンへとつながりました。すでに2001年には、国際的な競技力向上のための医科学的サポートの拠点としてJISS(国立スポーツ科学センター)がオープンしていましたので、ナショナルトレーニングセンターと両輪でアスリートを支えることができるようになり、これまでのオリンピックでの好成績につながってきました。また、2019年にはパラリンピック競技向けの施設「屋内トレーニングセンター・イースト」がオープンし、オリンピック選手とパラリンピック選手が同じ場所でトレーニングに励むことができるようになりました。そこで得られた情報や分析データを、今後はトップアスリートだけに利用するのではなく、一般社会にも還元していくことが重要だと考えています。

今後、そうした施策を通して、社会をどのように変えていきたいとお考えでしょうか? また、どのような取り組みをなさろうと考えていらっしゃいますか。

特に成長期の子どもたちが、将来成長していくための体をつくっていくためには、運動という刺激が非常に重要だということがわかっています。また、超高齢化社会において健康寿命を延伸させ、終末医療をいかにおさえるかということが最重要課題となっており、そこでは運動を欠かすことはできませんし、病気やけがの予防が重要です。そうした人間の生きる資本である体づくりに関して、スポーツ界ではいろいろと研究し、解明されてきていますので、今度はそれを社会にフィードバックしていかなければいけません。それは運動をするということに限らず、たとえば勉学に集中するためにも健康な体でいることは大事ですし、健全な心をつくっていくことにも重要な要素となりますので、国の事業として進めていくべきことだろうと思います。それこそ、ナショナルトレーニングセンターやJISSという国民皆さんが納めた税金を使い立派な施設をつくったわけですから、そこで得られたものを一般社会に還元していくというのは国としての責務だろうと思います。また、元JOC副会長を務めた経験からしますと、今現在、JOCはトップアスリートを育成・強化する役割を担う組織となっていますが、本来はそれだけに終わらず、もっと一般社会や地域に貢献できることはたくさんあるのではないかと思います。まずは各競技団体が50年後、100年後を見据えて明確なビジョンを打ち出していくことが重要です。それをJOCが統括し、競技団体ごとにばらばらに取り組むのではなく、方法は違っても、ビジョンを共有し、同じ方向に向かっていくことが必要です。日本や世界の明るい未来のために、スポーツ界がどう貢献していくのか。それはひいてはスポーツの価値が高まることにもつながります。そうしたことに、今後はしっかりと取り組んでいきたいと思っています。
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著者プロフィール

笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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