【浦和レッズニュース】「次は自分が…」鈴木彩艶の心に響いた川口能活コーチのGKミーティングと森保一監督の激励

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 メキシコとの東京五輪3位決定戦から4日後の8月11日、大原サッカー場には西川周作や塩田仁史とともに汗を流す鈴木彩艶の姿があった。

「休みはいりませんって伝えたんですけど、しっかり休んで気持ちを切り替えてほしいと言われまして。それで3日間、チーム練習に参加しなかったんですけど、1日、2日クラブハウスで体を動かしたので、コンディションはまったく落ちていないです」

 合宿がスタートした7月5日から代表チームが解散となった8月7日まで約1か月の長丁場だったが、彩艶はGKの3番手という立ち位置で1試合も出場できなかった。

 それゆえ、すぐにでも試合に出たいという飢餓感が体を支配しているのも無理はない。

「悔しい大会でしたけど、次につながるいい経験ができたと思います。試合に出られなかったことに関しては、今の自分はU-24の試合に出るレベルに達していないのかなって。その現実をしっかり受け止めています」

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 彩艶が抱いた悔しさは、そうした個人のことだけではない。

 金メダルを目指して戦ったチームの結果についても、同様の思いを抱えていた。

「初めてU-24のキャンプに参加した6月、このチームのオリンピックに懸ける思いを肌で感じて。当初はバックアップメンバーでしたけど、選ばれたときは、このチームのために戦って優勝したいっていう気持ちが強かったので、最後負けてしまって悔しい思いが残りました」

 だが、それ以上に有意義な大会だったのは間違いない。

「本当に楽しかったです。練習では常に学びがありましたし、課題を改善していく楽しさがあった。それに、このチームに参加する前は、もっとピリピリしているのかなって思ったら、オンとオフの切り替えがすごくしっかりしていて、仲がすごくいいけど、厳しいことも言い合える人たちばかり。過ごしていて楽しかったです。だから、解散するときは寂しさも覚えました」

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 なかでも合宿スタートからチーム解散まで、川口能活GKコーチのもと、谷晃生、大迫敬介とトレーニングした濃密な時間は、大きな財産となった。

 今大会で第1GKに指名されたのは、谷だった。実は彩艶は15歳だった2017年にインドで開催されたU-17ワールドカップのメンバーに飛び級で選出されたが、このときも正GKを務めたのは谷だった。

「インドのときと同様、谷くんは自分のプレーを全うし、絶対にポジションを譲る気はないというプレーを見せていた。その姿勢は4年前と変わりなかったですね。谷くんはレベルが高い。その実力をピッチで発揮できたのは準備の良さだと感じました。普段の練習の積み重ねがゲームに出たのかなって」

 そんな谷に対して彩艶は毎試合前、必ずあることをしたという。

 楽しんで――。

 そう声を掛けたのだ。それは浦和レッズの先輩、西川周作の影響だった。

「僕がレッズで試合に出るとき、周くんから『エンジョイ』って毎回言われて。そのときに楽しんでやろうって、気持ちが楽になったので、谷くんにも声を掛けました。それは周くんから学んだことです」

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  一方、大迫は控えGKとして互いに切磋琢磨した仲だ。

「大会が進むと、大迫くんとふたりでトレーニングすることが多かった。大迫くんも悔しかったと思うんですけど、試合が終わったあとに片付けを積極的にやったり、翌日の練習でもチームの雰囲気を良くしていたり。試合に出られないときの姿勢はすごく勉強になりました。練習後にも、能活さんに『こうしたい』ってどんどん頼んでいたり。基礎技術も高いし、シュート対応の面でも学びが多かったですね」

 もちろん、大迫はもともと人間性に優れているのだが、おそらく大迫にとっても、そして間違いなく彩艶にとっても意識を高めるきっかけとなったのが、川口GKコーチが大会前に開いたGKミーティングである。

「能活さんがキャンプの最初にGKミーティングを開いてくださって、最後に選ばれたのがこの3人なのだから、どんな形であれ戦っていこう、と話してくださった。これまでの活動の映像も見て、GKもたくさん呼ばれてきたけれど、最後に自分が選ばれたというところが自分には響きました。そうした選手たちの分までしっかり責任を持って戦わないといけないなって」

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 フィールドプレーヤーとの交流が図れたことも大きな財産となった。

「田中(碧)選手は食事に関する知識が豊富で、すごく気を使っているので、こういう食事を摂ったほうがいいとか学ばせてもらいましたし、吉田(麻也)選手には海外のGKがどんな筋トレをしているのかを教えてもらいました。前田(大然)選手や旗手(怜央)選手とは一緒に筋トレをしながら、互いに指導し合ったりもしました」

 さらに、レッズの先輩である橋岡大樹に対しては、改めて尊敬の念を強めた。

「橋岡選手がいるだけでチームがいい雰囲気になるというか。レッズにいた頃から明るい性格で、ムードメーカーということは感じていましたけど、代表での立ち位置を知ったとき、ここまでチームにいい影響を与えられるんだって。試合に出られないときも、率先してチームのために働いていたので、そういった面も含めて改めて素晴らしい選手だなって感じました」

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 東京五輪代表チームの冒険は、4位という結果をもって幕を閉じた。

 しかし、19歳の彩艶には次のパリ五輪に出場する資格がある。

 合宿中にメディアからパリ五輪について聞かれた彩艶は「次の五輪は意識していません。まずは今回の五輪」と答えていたが、東京五輪が終わった今、自身の心境の変化をはっきりと感じ取っている。

「次は自分が、っていう思いが芽生えています。周りの先輩たちからも『頼むぞ』って言ってもらいましたし、そういう思いが強くなりました」

 そんな彩艶の気持ちをさらに熱くさせたのが、森保一監督の言葉だった。

 指揮官は「試合に使ってあげられなくて申し訳ない」と詫びたあと、「彩艶にはパリ五輪があるけれど、A代表に入ってからパリを目指してほしい」と期待を述べたという。

「今回、久保(建英)選手や堂安(律)選手とか、チームを引っ張る選手がA代表から五輪代表に来た。チームを引っ張っていくためには、A代表にしっかり選ばれることが大事だなって思いましたね」

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 A代表のゴールを守る川島永嗣は38歳、権田修一は32歳と、いずれも30代。GKというポジションが経験を必要とし、だからフィールドプレーヤーと比べて高齢でもプレーする選手が多いとはいえ、現在22歳の大迫、20歳の谷、18歳の彩艶の3人が近い将来、A代表のゴールマウスを守り、この先10年以上、A代表のポジションを争う関係になってもおかしくない。

「ふたりとは互いに認め合い、高め合っていく素晴らしい関係を築けたのは確かです。ただ、僕はライバルとしか捉えていない。A代表になれば年齢の上限もなくなりますし、ポジションを争っていきたいと思います」

 浦和レッズでのポジション奪還、A代表への選出、そしてパリ五輪出場と、彩艶は次々とやってくる目標を、しっかりと見据えている。

(取材/文・飯尾篤史)

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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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