【日本野球連盟公式サポ通信】黒獅子旗のゆくえ(Honda鈴鹿編)
【提供:Honda鈴鹿硬式野球部】
社会人野球のちょっと裏側をお伝えする「日本野球連盟公式サポーター通信」第11回目です。
今回は、優勝チームの証である黒獅子旗のその後を、当時のエピソード共に振り返る人気企画「黒獅子旗のゆくえ」です。
怖いもの知らずのルーキーイヤー
【提供:Honda鈴鹿硬式野球部】
と当時を振り返るのは、1994年にHonda鈴鹿(優勝時は本田技研鈴鹿)でエースピッチャーを務め、昨年までHonda鈴鹿の監督としてチームを指揮していた、甲元訓GMです。
現在は狭山・鈴鹿・熊本の三事業所の統括GMとして3チームの取りまとめをしています。
【提供:Honda鈴鹿硬式野球部】
「都市対抗に出場すること」を目標に掲げていたHonda鈴鹿としては、はじめから優勝を意識していなかったため、
「それがまた、のびのび力を出せる良いきっかけでした。もちろん運もあったとは思いますが、プレッシャーなく投げられたことはプラスでした。新人で、しかも本戦に来てから調子の上がらない状態なのにも関わらず、当時の高橋(博昭)監督は『お前にかけるよ』と先発を任せてくれた。自分が監督になって気づきましたが、これは簡単なことではありません。高橋監督含め当時のスタッフは、選手のことを本当によく見てくれていたので、選手の起用・采配は長けていたと思います」
甲元GMは、現役から離れた今、この優勝経験を若手選手たちに伝えているそうです。
「特別難しいことを話しているわけではないのですが、優勝できるチームは選手が各々の役割をしっかり全うしています。全員がそれぞれの場所で能力を発揮することができたチームが優勝できると信じています」
チームの勢いを後押ししたキーマン
【提供:Honda鈴鹿硬式野球部】
「あの年の勢いは、久芳(くば)さんの雰囲気と非常に似ていました。ベンチの中を盛り上げて、気持ちよくプレーができる空間を作ってくれました」
と、当時主将で外野手の久芳修平さんを紹介していただきました。
久芳さんは、引退後は鈴鹿製作所で課長まで務め、現在は大阪にある法人営業部に勤務しています。
電話越しにも伝わるユーモアのある明るい人柄で、優勝時のお話しをうかがうと、
「実はね、この年は廃部寸前だったんですよ。2年連続で本戦出場を逃していたので、ベテラン選手もたくさん退部しました。新人が8人入ってきて、新チームを作るぞ!と意気込んでいましたが、予算が削られていたのでキャンプもなし。寒い中、三重県津市にある津球場で練習をしました。遠征も日帰りです」
と、本戦出場に向けて苦労していたことが分かります。
「当時いた工場は、職場の人との距離が近く、野球部に対する良い声も悪い声も両方聞こえてきた。どちらも自分にはプラスになったので、後輩たちには現場の声と信頼は大事だぞ、と現役を離れても伝えています。優勝した1994年は、会社の業績も落ちていたので、何とかして明るい話題を持って帰ろうとチーム内では話していました」
ベテランと新人を入れ替えた新しいチーム編成で挑んだことに不安はなかったかうかがったところ、
「ボクには関東のチームへの苦手意識がありました。でも新人たちは、いい意味で何も知らないから怖いもの知らずでイキイキと戦ってくれた。そして補強選手の黒木(知宏投手・新王子製紙春日井)と森(昌彦投手・NTT東海)が相乗効果を生んだ。若い力と補強選手が一つになれたことも優勝のポイントだったと思います」
Honda鈴鹿・従業員たちの野球愛
昨年の日本選手権では、鈴鹿から駆け付けた多くのファンの力によってスタンドがホンダカラーの赤色で染まった 【日本野球連盟公式サポーター】
応援席で観客としてHonda鈴鹿を応援する側になり、優勝時と変わらない熱い声援を見ていると、感謝の気持ちでいっぱいになるそうです。
「Honda鈴鹿の良いところは、応援団もチアも全員従業員というところ。この手作り感ある応援が見どころなんです。現役の時は、あの大声援に何度も後押しされました。最近は一回戦負けが続いていますが、Honda鈴鹿らしく遮二無二戦って、再び優勝を見せて欲しいですね」
と熱い思いの丈を聞かせてくれました。
【提供:Honda鈴鹿硬式野球部】
黒獅子の勇ましい姿は、未曾有のコロナ禍を打破できそうな力強さがあります。
いよいよ来月からは、都市対抗野球大会の一次予選がスタートです。
今年はどのチームが勝ち残るのか、皆さんもご注目くださいね。
(今回の取材は、5月上旬にすべて電話取材で行いました)
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ