仙台育英・須江監督が感じなくなった「叱る意味」 “自分で選ぶことに慣れている世代”の導き方とは?

村中直人、大利実

【写真は共同】

 スポーツ界には未だに怒声や暴言、厳しい叱責を含めた「苦痛を用いた指導」が存在し、社会問題になっている。指導者自身が「叱る」の根本を知り、理解を深めていくことが、子どもたちの心を育てる指導につながっていくと、考える臨床心理士・村中直人氏と野球界を中心に長年、育成世代の取材を続けているスポーツライター大利実氏が共著『脱・叱る指導 スポーツ現場から怒声をなくす』を刊行。今回同書内の特別対談として、村中氏と仙台育英高校野球部・須江航監督の対談を一部抜粋して公開します。

叱ることの意味を年々感じなくなっている

――選手を育てていくうえで、叱ることに意味はありませんか?

須江 正直言って、選手たちを叱る意味を年々感じなくなってきています。こちらが叱ったところで、その気持ちや言葉が選手には伝わっていないんですよね。「叱られたことで目が覚めました。ありがとうございます!」ということはまずありません。言葉が刺さらない。何かが大きく改善することはほぼない。だからこそ、丁寧に説明することをより強く意識しています。

――その理由はどこにあると感じますか。

須江 ぼくが嫌われているのかもしれませんが(笑)、心の扉を閉ざすのが早くなっている気がします。以前は、10秒や15秒は扉が開いていた気がしますが、今は叱られたり、怒られたりしそうになると、数秒でシャッターを閉じる。だからといって、仙台育英の生徒が素直さに欠けるわけでも、人の話を聞けないわけでもないんです。

村中 興味深い話ですね。素直で人の話を聞ける生徒が、「叱る」という行為に対してはすぐにシャッターを閉じる。そもそも、「叱る」にはその時その場の行動を変える効果しかないものですが、それが近年より顕著になっているということでしょうし、生徒たちが叱られることにしらけてしまっているのかなとも思います。

――スポーツ指導の現場を見ていると、すでに終わったプレーに対して、試合中に叱っている光景を目にします。

村中 もう終わっていることであり、過去のことです。「叱る」というコミュニケーションに意味はないと考えたほうがいいでしょう。

須江 私も、公式戦で怒ることはまずないですね。

義務教育における自由度の少なさ

――さきほどの「シャッターが早く閉じる」という須江監督の話に関して、何か考えられる要因はありますか。

村中 叱られたときの反応で多いのは「戦う」か「逃げるか」。シャッターが開いている間は戦っていて、自分の言い分を相手にわからせようとしている。でも、閉じているということはもう逃げているのかもしれませんね。ファイトする気力が残っていない。たいていの子は、「叱られているこの場を早く終わらせたい」としか思っていません。苦痛を感じないために、心を閉ざして、自らの感情にフタをしていると言ってもいいでしょう。

――自分の主張を口にするよりも、黙っていたほうがいいという思考ですね。

村中 では、その思考がどこから始まっているかとなると、教育現場における〝自由度の少なさ〞が密接に関わっていると推測しています。具体的に言えば、「自分で選択する機会がとても少ない」。教員や指導者が、「この方法でこれをいつまでにやってください」と方法論と目標をセットで教えることによって、子どもたち自身が自己決定する場が失われます。そして、縛られたルールからはみ出る子どもは叱られてしまう。こうなると、子どもたちの心に残るのは「圧倒的な無力感」。自分で物事を決められず、変えることもできず、相手(権力者)の言うとおりのことをしなければ評価されない。だから、戦おうとは思わないんですよね。外から見たときには、「我慢強く、先生や指導者の言うことを素直に聞く子」と見られるかもしれませんが、内面は決してそうではないのです。ただ、あきらめているだけです。

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