高校野球と人権

「高校野球の常識」を変えようとしていた23年夏の慶應 選手の言葉で蘇った“蓋をしていた”記憶

中村計 松坂典洋
 帰路、長いこと蓋をし続けていた記憶が鮮明に蘇った。30年以上も前の話だ。私は千葉県内の公立高校の野球部に所属していた。ある日の練習試合のこと、捕手だった私はベンチに戻るなり監督に配球ミスを指摘された。

「てめぇが悪いんだろ」

 納得がいかなかった私は咄嗟に無言で監督をにらみ付けた。

 すると監督は色をなした。

「ムカついてんのか?」

「ムカついてません!」

 ムカついていたが反射的にそう返すや否や頰が火を当てられたかのように熱くなった。平手打ちが飛んできたのだ。

「ムカついてんのか?」

「ムカついてません!」

 そのやり取りをするたびに平手打ちを食らい、監督の顔に小さな赤い点が増えていった。私の鼻血だった。

 俺は、動物じゃねえ。心の中でそう叫んでいた。

 次の回、キャッチャーマスクをかぶると、強い圧迫感を覚えた。頰が腫れ上がっていたせいだ。視野の下部に黒い陰が映る。自然と涙がこみ上げた。

 屈辱だった。言葉で言われればわかります、そう伝えたかった。

 ところが試合後、私はまったく反対の行動に出た。

「さっきはすいませんでした」

 監督にそう頭を下げるなり、再び涙がとめどなくあふれてきた。

 悪いと思ったわけではなかった。ただ、怖かったのだ。反抗的な態度を取ったことで監督に嫌われ、試合に出られなくなってしまうことが。

 自分は何とずるい人間なんだろうと思った。自分の言いたいことも言えず、試合に出たいがために自分を偽った。従順な振りをしたのだ。

 そんな自分がたまらないほど情けなく、恥ずかしかった。だから、今までその記憶を封印し続けてきたのだ。

 だが、八木の言葉によって、その記憶の蓋は勢いよく引っ剝がされた。そして30数年の時を経て、心底、後悔した。私は謝りたかったのではない。殴られなくてもわかる、人間として扱って欲しいと主張したかったのだ。

 あのとき、監督にそう伝えることができていたなら、私の野球人生はどうなっていただろうと思う。

 干されていただろうか? そんなことはなかったのではないか。私の恩師は情熱家だったが、一歩引いた冷静さを併せ持っていた。それは私が大人になり、酒席をともにするようになってからわかったのだが、むしろ、そちらの方が本性に近いのではないかと思った。

 つくづくそういう時代だったのだと思う。ときにカッとなって手も上げるが、涙もろくて情に厚い先生。学校に一人くらい、そんな教師がいてもいいだろう、と。もっと言えば、求められてもいた。私の通っていた高校は進学校ゆえ手のかかる生徒は少なく、淡々と業務をこなす教師が多かった印象が強い。そんな中、私の恩師は、あえて殴ることも辞さない熱血漢を装っていた節がある。

 今にして思うと、決して話してわからない先生ではなかった。いや、むしろ、誰よりも真剣に話を聞いてくれる人だったのだ。

 八木が気づかせてくれたこと。それは高校生も「自分が思っていることを言っていい」というシンプルな真理だった。それは万人に与えられた権利なのだ。

 高校時代、私も世の中に「基本的人権」というものがあり、それを「生まれながらにして」有しているらしいことは教師によって脳の中にすり込まれていた。だが、それは私の中でテストの解答欄に書く言葉以上のものではなかった。

 私は高校生のとき、まったく知らなかった。「人権」の意味を。

 自分の輪郭がぼやけてしまいそうになったとき、人は自分で自分を守る権利がある。そんなことを50歳になり、18歳に学んだのだった。

 もし、あのときの私にその知識があったなら――――。

 監督と新たな信頼関係を築くことができたのではないか。そして、プレイヤーとして一段、上のステージに上がることができたのではないか。高校で野球を嫌いにならずに、大学でも野球を続けることができたのではないか。

 もっと言えば、今、違う自分がいたのではないか。そう思うと、後悔してもし切れなかった。

書籍紹介

【(c)KADOKAWA】

日本人に愛される「高校野球」から日本人が苦手な「人権」を考える

甲子園から「丸刈り」が消える日――
なぜ髪型を統一するのか
なぜ体罰はなくならないのか
なぜ自分の意見を言えないのか
そのキーワードは「人権」だった
人権の世紀と言われる今、どこまでが許され、どこまでが許されないのか
高校野球で多くのヒット作を持つ中村計氏が、元球児の弁護士に聞いた
日本人に愛される「高校野球」から日本人が苦手な「人権」を考える
知的エンターテインメント

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