ロッテ井上 涙、涙の引退セレモニー。「ボクはマリーンズに入ってこれて、そして引退できて本当に幸せです」

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千葉ロッテマリーンズ井上晴哉内野手 【千葉ロッテマリーンズ提供】

 アジャの愛称で誰からも慕われた千葉ロッテマリーンズ井上晴哉内野手が今シーズン限りでユニホームを脱いだ。入団時の体重は115キロ。NPB日本人選手最重量選手として話題となった。

 「ほっといてくれ。そんなに騒がないでと思った時もあった」と振り返る。それでも井上の優しい性格はメディアの質問を拒むことはなかった。「自分で、この体重でしっかりと動けている自負があったというのもある。なによりもマスコミの人が体重の質問をする時にいつも楽しそうだったので、応えないといけないと思う部分があった。自分からも思わず話をしていた」と笑う。

 メディアの要望に応じたリップサービスを欠かさない選手だった。一時はパワーアップを目的に筋トレを行い、体重は120キロを超えたこともあったが「あの時は全然、動けなかった。ああ、人にはベスト体重があるんだと。ここは自分のベスト体重ではないと悟った」と語る。引退した今は116キロ。振り返ってみるとベスト体重は115キロから117キロの間ぐらいだった。

 NPB日本人選手最重量ルーキーとして注目を集めた1年目のオープン戦では鮮烈なデビューを飾る。2月16日、石垣島で行われたバファローズ[とのオープン戦で3安打を放つと毎試合のようにヒットを記録し、開幕前の最後の試合となった3月23日のスワローズ戦(神宮)では3安打猛打賞、1本塁打と最高の形で締めた。結局、オープン戦15試合で打率・435、2本塁打、7打点。話題性だけではなくそのバットも注目を集める形で1年目のシーズンに突入する。

 そして迎える3月28日のホークスとの開幕戦、当時ヤフオクドームでその名はスタメン4番にあった。
 
 「4番になるとは思っていなかった。開幕前日練習で多分言われた。でも、まだ開幕前日のたかだが練習日なのにめちゃくちゃ緊張していてなにも覚えていない。初めてプレーをする球場。オープン戦でもやっていない場所だったので。オープン戦でも4番だったけど、まさかと思った」と話す。
 
 当時、指揮を執っていた伊東勤監督に言われても、本当にスタメン表にその名を自分の目で見るまでは信じられなかった。そして現実に「4番 ファースト 井上」の文字が目に飛び込んでくることになる。3番は井口(資仁)。チームの看板選手の後をドラフト5位ルーキーが名を連ねた。その衝撃は想像を絶するものだ。自分が自分ではないような緊張感に襲われた。プロ1打席目は初回にいきなりチャンスで巡ってくる。大先輩の井口が左越え二塁打で1点を先制してなお一死二塁のチャンス。プロ初打席はチームにとって大チャンス。重圧のかかる酷な場面だった。「やべえ。これはなんとしても打たないといけないと思って力んだ。今思うと、それが負の連鎖の始まりだった」。結果は三ゴロ。この試合、4打数ノーヒットに終わると翌日は4番DHで3打数無安打。3試合目はスタメンから名は消えた。チームも開幕3連敗を喫した。4番で起用してもらったのに結果を出すことができなかった自分のせいで負けたと気持ちは落ちた。そんな、ふさぎ込みそうになった時に声をかけてくれた先輩がいた。
 
 「落ち込んでいる時に井口さんから『開幕は誰でも緊張する。オレも緊張したよ』と話しかけてもらった。え、そうなの?と思った。あれがあったから、その後は緊張した場面でも誰でも緊張していると思えるようになった。打っている自分もそうだし、投げている投手もそう。守っている野手もそう。それが分かったから落ち着けていけるようになった」と話す。辛い思い出はその後の活躍のキッカケとなった。一軍で601試合に出場して76本塁打、313打点、486安打。原点は開幕カードで味わった悔しさ。辛い思いだった。

 開幕戦で忘れられないもう一つのゲームは2016年3月25日。本拠地で当時はQVCマリンフィールドでファイターズを迎えて行われた開幕戦である。相手先発は現在はドジャースで活躍をする大谷翔平。前年の15年は15勝5敗で防御率2・24。日本を代表する押しも押されぬエース投手としてマウンドに立ちはだかっていた。井上は開幕を6番ファーストで迎えていた。18時30分試合開始で、まだ夜は肌寒い時期。プロ3年目の井上はもう過度に緊張することはなかった。寒さも気にならなかった。すべて条件は一緒。相手も同じ気持ちだと考えた。

 初回、相手の攻撃を無失点に切り抜けると、その裏、4番アルフレド・デスパイネの中前適時打で1点を先制。さらにチャンスは広がり二死一、二塁で井上の打席を迎えた。ルーキーイヤーの開幕戦と同じく1点を先制してなおチャンスの場面での打席だった。ただ、今回は戸惑いも迷いもなかった。フォークを捉えると打球はレフト線を抜ける二塁打となった。

 「たまたま当たったけど、思いっきり振れたのがよかった。一年目の経験があったから打てた一打。誰もが緊張していると思ったから。今でも忘れられないくらい嬉しかった。なにも出来なかった一年目の悔しさが生きた」と井上は当時を振り返り、目を輝かせる。

 その後、井上は18年に覚醒の時を迎える。133試合に出場し24本塁打、99打点。翌19年は129試合に出場して24本塁打、65打点。球団史上、初芝清氏以来となる2年連続20本塁打以上を達成した(初芝氏は98年から00年の3年連続)。しかし、その後に待っていたのは故障の日々。「手首を手術してから感覚がずれてしまったのは間違いない。あと膝。今まで膝を痛くしたことなんて一度もなかったのに、膝が痛くなった。定期的に注射を打って試合に出ないとダメな状態だった」と振り返る。そして今年、ついに引退を決める。

 11月17日 ZOZOマリンスタジアムで行われたMARINES FAN FEST2024の中で行われた引退セレモニー。井上は泣いた。泣いて、泣いて、泣きじゃくった。サプライズだった動画メッセージの数々で泣き、仲間、家族から花束を渡され泣き、最後は場内一周をする時に「アジャ、ありがとう」のファンからの言葉を聞くと声を上げて泣いた。

 「最高のセレモニー。本当にありがとうございました。ボクはマリーンズに入ってこれて、そして引退できて本当に幸せです」とイベント後、話をしてくれた。タイトルホルダーではない。オールスター出場もない。それでもファンの心に残る選手であった。本拠地開幕戦の大谷討ち、涙のサヨナラ打、1試合3本塁打。数々の名場面があった。マリーンズの歴史の中でキラキラと色彩を放った選手だった。そしてなによりも優しく、よく泣く男だった。

文 千葉ロッテマリーンズ広報室 梶原紀章

引退セレモニーでの集合写真 【千葉ロッテマリーンズ提供】

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