注目は大谷の個人記録だけだった22年のエンゼルス 番記者振り返る苦闘の日々
新監督は熱血漢
ネビンは南カリフォルニアで育ち、エンゼルスタジアムからわずか10マイル(約16キロ)北に位置する、カリフォルニア州立大学フラートン校でスター三塁手として名を馳せた。そして、1992年のドラフトにおいてヒューストン・アストロズが全体1位で指名した。
もっとも、メジャー昇格までは多少の時間を要した。アストロズからデトロイト・タイガース、そしてエンゼルスを経てサンディエゴ・パドレスと転々とし、そこでやっとメジャーデビューを果たすことができた選手だ。
2001年に、ネビンは41本塁打を放ち、オールスターゲームへの出場も果たした。パドレスには7年間所属したが、終盤になるとユーティリティプレイヤーとしての起用が増えていく。
言い換えると、ベンチで過ごす時間が長く、監督のブルース・ボウチーを間近で観察できる機会に恵まれていたということだ。
当時のボウチーは、監督としてはまだ駆け出しの時期だったが、その後も長くメジャーで監督を務め、サンフランシスコ・ジャイアンツで三度、そしてテキサス・レンジャーズで一度、ワールドシリーズ制覇を成し遂げることになる。
「あいつ(ネビン)はいつも注意深く観察していて、試合展開をよく読んでいたよ」
ボウチーが当時を振り返った。
「つねに対戦相手の監督や私が、なぜこの場面でこの手を打つのかという問題意識をもってよく聞いてきた。純粋にゲームを愛しているんだな。監督業への意欲、情熱の炎、そういったものはずっと長く秘めていたよ」
この「情熱の炎」のせいで、ネビンは何度か選手時代にトラブルに陥った。冷静さを失い、しょっちゅう審判にかみつき、退場処分を受けている。
ネビンの選手時代は2006年までで終わりを告げたが、再び現場に戻りたい、そして今度は監督をやりたいという思いが強かった。しかし、まずやらなければならないのは感情の制御だ。ネビンは、マイナーリーグの最高峰であるトリプルAで6年間、監督を務めた。それからボウチーは、彼にジャイアンツの三塁コーチの機会を提供し、ここでネビンは感情が昔より安定していることを証明した。
それから数年間、ヤンキースの三塁コーチを務めたあとにエンゼルス入りするが、マドン監督解任により加入後わずか2カ月で、彼にとって悲願だった初のメジャー監督就任が実現することになったのだ。
エンゼルスの暫定監督就任から数週間たったとき、ネビンはまだまだ血の気の多さが残っていることを証明してみせる。
シアトル・マリナーズの右腕投手、エリック・スワンソンが、6月25日の試合で9回にトラウトの頭の近くに危険球を投じ、しかも、エンゼルスは敗戦した。
この翌日、ネビンはアンドリュー・ワンツという右腕投手を先発投手に指名した。これはつまり、ワンツは1回か2回だけを投げ、そのあと中継ぎ投手が4イニングか5イニング登板するという意味だ。
ワンツは早速1回に、マリナーズのフリオ・ロドリゲス外野手の背後を通す1球を投じた。2回には、ジェシー・ウィンカーに死球をぶつけた。これが前夜のトラウトに対する危険球への報復であることは、球場にいた誰もがわかっていた。
その直後、両チームの選手たちがフィールド内になだれ込み、パンチの応酬となった。審判が試合再開を宣告するまで、18分の時間を要した。この翌日、MLB機構は12人の関係者に処分をくだし、ネビン暫定監督も10試合の出場停止となった。MLB機構が、ネビンが首謀者だと確信しているのは明らかだった。
ネビンの出場停止により、エンゼルスはさらなる苦境に陥った。
オールスター休暇までの9試合中8試合を落とし、オールスターゲーム直後の7試合中6試合をさらに落としてしまったのである。
残念ながらこの時期までに、エンゼルスのシーズンが終わったのは明白だった。残されたファンの関心事は、大谷がどこまでやれるのかだけになってしまった。
書籍紹介
【写真提供:徳間書店】
二刀流・大谷翔平のMLBの2022年シーズンから始まり、2023年シーズンとWBC優勝、そして新天地移籍までの舞台裏を追ったノンフィクション。
アーロン・ジャッジ、マイク・トラウトといった、強力なライバル&盟友らの背景や生い立ちなど、アメリカのベテラン記者ならではの視点で描かれた「大谷本」の決定版!!