井口資仁『井口ビジョン』

井口資仁を飛躍させた“小久保ネット”とトレーニング 木製バットへの適応に苦しみながらも大学2年秋に三冠王獲得

井口資仁
 高校では甲子園出場、大学では三冠王と本塁打新記録。

 プロ野球では日本一、メジャーリーグでは世界一を経験し、ロッテ監督時代は佐々木朗希らを育てた。

 輝かしい経歴の裏には、確固たる信念、明確なビジョンがあった。ユニフォームを脱いで初の著書で赤裸々に綴る。

 井口資仁著『井口ビジョン』から、一部抜粋して公開します。

プロのイメージを具体化させた小久保さんの存在

【写真は共同】

 僕が掲げた大学での目標は「プロ野球選手になること」と「オリンピックに出場すること」。これを達成するための指針となったのが、言うまでもなく小久保さんです。小久保さんの取り組みを間近で見ることができた1年は大きな財産となりました。小久保さんはとにかく、時間があれば練習するのです。

 今でこそ、大学生が練習にウエートトレーニングを取り入れるのは当たり前。高校生から始める学校も少なくありません。でも、1990年代前半はまだ科学に基づいたトレーニングは一般的ではなく、自重を使ったトレーニングや走り込みなどが主流でした。そういう時代に小久保さんはウエートトレーニングや新しいトレーニング方法を積極的に取り入れ、大学野球では押しも押されもせぬ右の長距離砲となったのです。そして、1993年のドラフト会議では逆指名の末、ダイエーから2位指名を受けてプロの世界へ羽ばたいていきました。

 僕にとって小久保さんは最も身近からプロ野球選手になった人物です。「小久保さんと同じことができれば、ドラフト指名を受けるレベルまで達するはずだ」と考えた僕は、その練習を徹底的に真似しました。毎日夜9時になると寮の目の前にあった大学のトレーニング施設へ行き、コーチの指導を仰ぎながらベンチプレスなどのウエートトレーニングを実施。小久保さんが上げていたウエートの重さを目標とし、「これを超えればプロ野球選手になれる!」と張り切ったものです。

 河原井監督も「とにかく小久保を抜け」とハッパを掛けてくる。「よしっ!」と息巻く僕に、河原井監督が大きな“人参”を用意してくれたこともあります。

 当時、横浜市内の綱島総合グラウンドにあった野球場には「小久保ネット」と呼ばれる防球ネットが張られていました。小久保さんがネットを越える打球を飛ばし続けたため、近隣の迷惑にならないようネットを高く改修していたのです。すると、河原井監督は小久保ネットを越える打球を打てたら1本1万円をくれるというのです。僕の目の色が変わったことは言うまでもありません。

 ただバットを大振りしても飛距離は伸びません。バットの芯でボールを捉えて初めて、力強い打球が遠くまで飛ぶのです。一生懸命にロングティーの練習に取り組むと、次第に1本、2本とネットを越えるようになり、ついにはネット越えが連発されるようになりました。当初は約束通り1本1万円のご褒美をくれた河原井監督も大慌て。いつのまにか、さらに高いネットが張られていました。今でも大笑いする、いい思い出です。

打撃を開花させたウエートトレーニング

 僕が入学した年は、4年生に小久保さん、2年生には坪井智哉さん(東芝-阪神4位)や川越英隆さん(日産自動車-オリックス2位)が在籍するなど、非常にレベルの高いメンバーが揃っていました。河原井監督は1年春季リーグから遊撃手として起用してくださり、僕も3割を超える打率で貢献。優勝がかかった駒澤大学戦では8回に逆転2点タイムリーを打ち、7季ぶり3度目の優勝を飾りました。

 好成績を残せたものの、僕自身はまったく手応えを感じられず、自分ではビギナーズラックだったと思っているほどです。何も考えずにバットを振って、たまたま結果が出ただけ。ヒットを打っても、タイムリーになっても、心の中では大学野球の壁を感じていたのです。

 高校野球と大学野球の最大の違いは、バットでしょう。高校では金属バットを使うのに対し、大学では木製バットを使用。僕は当初、スムーズな移行ができたと思っていたのですが、打席に立てば立つほど、バットを振れば振るほど、自分の打撃を見失い、しばらくは出口の見えないトンネルを彷徨っている状態でした。

 僕たちが高校で使っていた金属バットは、900グラム以上という重量規定が設けられる前のもの。非常に軽く、ヘッドに重さを感じない作りだったため、素速いスイングでボールを打ち抜くことには優れていました。ただでさえ、金属バットは木製バットよりも打球の飛距離が出るものです。さらに、軽量で操作性に優れていたため、バットのどこかに当たりさえすればヒットになっていました。

 でも、木製バットはまず重い。軽くても900グラム前後で、ヘッドの重さを利用しながら芯でボールを捉えなければなりません。もし芯を外したら打球は前に飛ばないし、バットはすぐに折れてしまいます。

 なんとなく出た結果が長続きするはずもありません。1年春に3割を超えていた打率は、秋には2割台となり、2年春にはとうとう1割台まで低下。さすがに危機感は募るものの、何を試してみても上手くいかない。途方に暮れていたある日、たまたま実家に立ち寄ると、真面目な顔をした母から「このままじゃプロに行けなくなるよ」と現実を突きつけられたのです。幼い頃から僕の練習に付き合い、一番近くで応援してくれた母の言葉は僕の尻に火をつけました。そして本格的に始めたのが、小久保さんがやっていたウエートトレーニングでした。

 寮の目の前にある大学のトレーニング施設に通い始めた頃、僕の体はまだ線が細く華奢でした。おそらく打撃のスキルレベルは向上しても、体がそれに追いついていなかったのでしょう。ロッテに入団当初の佐々木朗希を思い出してみてください。高校生で時速160キロを投げることはできましたが、体はまだ細く、才能を使いこなすのに十分な筋力に欠けていました。スキルや才能と身体能力とのバランスが取れていないと、安定したパフォーマンスは生まれません。

 僕はプロを目指す上でも必要な筋力をつけるため、トレーニングコーチにプログラムを組んでもらい、ウエートトレーニングに励みました。僕が本格的に始めると、興味を持った同期が次々と参加。すぐに効果が出るものではなく地味で辛いトレーニングですが、仲間と一緒にゲームをクリアする感覚で楽しみながら続けることができました。

 効果を感じるようになったのは、2年夏のオープン戦でした。不思議とバットの重さが気にならなくなり、打球のスピードと飛距離がアップし始めたのです。筋力が増して木製バットの重みにも負けない体となり、うまくバットのヘッドを使いながら芯で捉える打撃が体現できるようになったのでしょう。

 2年秋季リーグでは、打撃が一気に開花。ヒットばかりかホームランも飛び出すようになり、半年前の春季リーグには打率1割台で低迷していたのが噓のよう。打率3割4分8厘、8本塁打、16打点の成績を挙げ、東都大学リーグでは1972年の藤波行雄さん(中央大-中日1位)以来となる三冠王を達成することができたのです。

1/2ページ

著者プロフィール

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント