井口資仁『井口ビジョン』

井口資仁を飛躍させた“小久保ネット”とトレーニング 木製バットへの適応に苦しみながらも大学2年秋に三冠王獲得

井口資仁

大学日本代表入りで近づいたオリンピック出場

 同じチームでプレーした先輩方がプロの道に進んだことで、目指すレベルがより具体化され、自分の強化ポイントが明確になりました。同じくプロを目指す同期の存在が刺激になったことは言うまでもありません。それに加えてもう一つ、僕の視野を広げる経験を積むことができました。それが大学代表、そして日本代表として数々の国際大会を戦えたことです。

 1993年春季リーグで青山学院大学が優勝したこともあり、僕は1年生ながら大学代表に選ばれ、その年に開催された日米大学野球選手権に出場する幸運に恵まれました。海外のチームと対戦した経験は小学生の時に一度あるだけで、本格的に対戦するのはこれが初めて。世代別の日本代表も初選出だったので、同世代のトップが集まる大学代表入りは本当にうれしい出来事でした。

 アメリカで開催された大会では5試合を戦い、日本は2勝3敗で優勝を逃しましたが、3試合で2点差以内と拮抗。メジャー予備軍の呼び声が高いアメリカ代表の野球は新鮮で「世界にはこんなヤツらがいたんだ」とカルチャーショックを受けたものです。

 日本も小久保さんをはじめ、法政大学の稲葉篤紀さん(ヤクルト3位)、駒澤大学の河原純一さん(巨人1位)、立教大学の川村丈夫さん(日本石油-横浜1位)、日本大学の北川博敏さん(阪神2位)ら、後にプロ入りする選手がズラリ。そして、一緒に遊撃を守ることになったのが、ダイエーでチームメートとなる明治大学4年生の鳥越裕介さん(中日2位)でした。本来であれば、早稲田大学4年だった仁志敏久さん(日本生命-巨人2位)が選出される予定だったのですが、仁志さんはすでに日本代表にも入っていたので、僕が選ばれたというわけです。

 日米大学野球では第3戦に右中間へ本塁打を放ちました。すると、この一発をアマチュア野球界の重鎮、慶應義塾大学の前田祐吉監督が高く評価し、「彼が次回オリンピックのショートだ」とお墨付きをくださったそうです。その影響もあってか、翌1994年にはアトランタオリンピックに向けた日本代表候補となりました。候補とは言え、目標へ一歩近づいたのです。スランプを乗り越え、秋季リーグで三冠を達成した直後の選出だっただけに感慨深いものがありました。

書籍紹介

【写真提供:KADOKAWA】

 高校では甲子園出場、大学では三冠王と本塁打新記録。

 プロ野球では日本一、メジャーリーグでは世界一を経験し、ロッテ監督時代は佐々木朗希らを育てた。

 輝かしい経歴の裏には、確固たる信念、明確なビジョンがあった。ユニフォームを脱いで初の著書で赤裸々に綴る。

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