カズの偉業、オシムの革命、フリューゲルスの消滅……Jリーグ30年史に刻まれた「重大ニュース・ベスト15」

加部究

6位:数々の語録も生んだオシムの革命

千葉に「考えて走るサッカー」を植え付けたオシム監督。就任3年目の2003年にはナビスコカップを制し、悲願の初タイトルをもたらした 【写真:アフロスポーツ】

 洞察力と語彙に富む一見無骨でシニカルな指揮官は、瞬く間に人心を掴んでいった。

「サッカーが人生そのもの」だと言い切るイビチャ・オシムは、リスクを冒して勇敢に攻めに出ていくサッカーを、中位以下の順位が染みついていたジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に浸透させ、ファンを魅了していく。

 2003年のオシム監督就任以降、クラブは一転リーグの優勝争いに加わり、05年、06年とリーグカップを連覇。オシムは日本代表に引き抜かれる運命を辿る。指導者、選手を問わずサッカーファミリーの指針として、彼は今も多くの人の心の中で生き続けている。

5位:磐田全盛を象徴する中山の4戦連続ハットトリック

 1人のストライカーが4試合も連続してハットトリックを達成する──。それは、とりわけプロの世界ではありえないし、あってはいけない出来事だと思ったので、対戦相手に事情を聞いてみた。

 すると、結局中山雅史を止め切れないのは、ジュビロ磐田の中盤の構成力が突出していたからだった。ドゥンガ、名波浩、藤田俊哉、福西崇史、奥大介……。卓越したポゼッションが対戦相手の集中力と体力を削ぎ、動き直しを厭わない中山へ必殺のパスが面白いように通る。だから中山は「エリア内でどう動き、どこにボールを置くかで、ほぼ決まる」と、反復練習を繰り返した。

 この偉業もあって、中山は1998年シーズンに36ゴールを量産して得点王に輝くのだが、チームの黄金期は完全優勝を果たす2002年まで途切れることなく続いた。

4位:DAZNマネー到来の功罪

 2017年、Jリーグは『DAZN』と10年間で約2100億円と破格の放映権契約を結び、さらに23年からは11年間で約2395億円にのぼる新契約を締結することで合意に至った。

『DAZN』との契約で、Jクラブの財政事情は劇的に好転し、ファンもJ3まですべての試合を楽しめるようになった。だが反面、今後Jリーグは従来の均等配分から、成績やファンの増減といった結果配分中心へシフトしていくという。ところが結果配分を先行した欧州側の視線は、Jリーグの放映権配分の転換に懐疑的だ。

 なぜなら、以来欧州各国リーグでは優勝を狙えるチームが絞られ、コンペティションとしての魅力が激減しているからだ。ドイツではバイエルンが10連覇、イタリアではユベントスが9連覇を達成するなど一強支配が目立ち、欧州リーグ協会の前事務局長などは「Jリーグは絶対に真似をしてはいけない」と忠告しているそうである。

 Jリーグは創設以来、毎年のように世界でも稀な混戦が続き、むしろ欧州側はそれを羨んでいる。しかしJリーグは、アジアをリードしていくようなビッグクラブの誕生を望んでいる。結果配分がどんな変化を導くのか。その成り行きを注視していく必要がある。

3位:風間で上手くなり、鬼木で強くなった川崎

“シルバーコレクター”と揶揄されてきた川崎が、2017年に悲願のリーグ制覇。最終節で優勝を決めた瞬間、中村憲剛は人目をはばからず涙を流した 【(C)J.LEAGUE】

 2005年からJ1に定着してきた川崎フロンターレは、関塚隆体制で3度もリーグ準優勝を果たすが、どうしてもタイトルに届かず、12年に満を持して風間八宏監督を迎えた。

 その指導に即効性があったわけではないが、やがて「止めて、蹴る」という繊細な技術で優位性を示し始め、圧倒的なボール支配でファンを魅了。残念ながら風間時代も肉薄しながら頂点には立てなかったが、川崎で上手くなる流れは中村憲剛や大久保嘉人らベテランも例外ではなく、17年に鬼木達監督が就任すると一気に実力が開花する。

 以降の6年間で4度のリーグ優勝を含む8つのタイトル(リーグカップ1回、天皇杯1回、スーパーカップ2回)を獲得。22年のカタールW杯でも、新旧の在籍者が日本代表の中核を成した。

2位:横浜フリューゲルスの消滅

親会社の経営難で、横浜マリノスとの吸収合併を余儀なくされたフリューゲルス。オリジナル10メンバーの消滅は、Jリーグにとって痛恨事だった 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】

 1998年、オリジナル10のメンバーだった横浜フリューゲルスが消滅した。佐藤工業と全日空の共同出資でスタートしたクラブは、親会社が経営難に直面し、横浜マリノスに吸収合併される形で終焉を迎える。

 衝撃の事実は選手たちにとっても寝耳に水で、クラブ側から報告を受けるのは朝刊に目を通した後だった。フリューゲルスに残された最後のタイトルは天皇杯。チーム内では、若い選手のアピールの場に使おうという意見も出た。しかし最後はゲルト・エンゲルス監督の「ベストで戦いたい」との声に若手選手たちも同意。結束したチームは、近隣の駅周辺で存続を訴えるビラ配りなども行いながら、ジュビロ磐田、鹿島アントラーズ、清水エスパルスという強豪を倒して日本一に到達する。

 指揮官以下選手たちは、存続への可能性を信じて勝ち続けた。しかし「誰か助けてくれないか!」というエンゲルス監督の呼びかけに応えるスポンサーは現れなかった。親会社に依存せず地域密着での活動を旗印に掲げたリーグとしては、痛恨の出来事だった。

1位:“無名”の鹿島が20冠、そしてR・マドリーに肉薄

20冠を達成するなど、この30年で国内屈指の強豪に成長した鹿島。2016年のクラブワールドカップ決勝ではR・マドリーを追い詰め、世界にも衝撃を与えた 【写真:アフロスポーツ】

 Jリーグの開幕を控え、川淵三郎チェアマン(当時)に「99.9パーセント(参加は)不可能」と断じられた鹿島アントラーズが、専用スタジアムとプロを熟知するジーコという最適の伝道師を得て、奇跡的な発展を遂げた。

 2000年に史上初の3冠を達成、09年にはJリーグ史上初の3連覇を飾るなど黄金時代を築くと、18年にはACLで初優勝。悲願のアジア制覇で国内最速の20冠という快挙を成し遂げる。こうしてリーグ屈指の強豪に成長した鹿島は、16年のクラブワールドカップでは世界を驚愕させた。

 アジア勢として初めて決勝に勝ち上がった鹿島の相手は、“白い巨人”レアル・マドリー。開始9分に先制を許した鹿島だが、その後は怯むことなく柴崎岳の2ゴールで逆転。その後に追いつかれるが、終了間際に金崎夢生が受けたファウルで、仮にセルヒオ・ラモスにこの日2枚目のイエローカードが提示されていれば、鹿島が大きく勝利に近づいた可能性があった。しかし、主審はカードに手をかけながらも躊躇し、試合を続行。結局、鹿島は延長戦で2点を奪われて力尽きた。

 思えば鹿島には、Jリーグ開幕前の欧州合宿でクロアチア代表に大敗し、ジーコを激怒させた過去がある。筋金入りの負けず嫌いな伝道師の魂は、脈々と引き継がれクラブの伝統となっていた。

(企画・編集/YOJI-GEN)

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著者プロフィール

1958年生まれ。立教大学法学部卒業。1986年メキシコW杯を取材するため、スポーツ新聞社を3年で退社。以後フリーランスのスポーツライターに転身し、サッカーW杯は男女合わせて8度現地で取材。主な著書に「毎日の部活が高校生活一番の宝物」(竹書房)、「日本サッカー戦記」「それでも美談になる高校サッカーの非常識」(以上カンゼン)、「大和魂のモダンサッカー」「サッカー移民」(以上双葉社)などがある

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