“日本語ペラペラ”の千葉ジェッツ新指揮官  J・パトリックの知られざる経歴と縁

大島和人

日本との縁は30年以上前から

 日本との関わりについて会見で尋ねると、彼は「日本語で答えます」と前置きした上で、自らの経歴を丁寧に説明してくれた。

「初めて日本に来たのは1991年の秋。そのとき大学のチームメイト、エリック・レベノがジャパンエナジー(日本鉱業)、もうひとりデリック・ブルトンも三井生命に勤めていて、二人は実業団でバスケをやっていました。その二人を訪ねながら、大阪の守口市にある近畿大学にトライアウトで1週間いました。大学を卒業したあと、ヨーロッパに行くか、近大に行くか、チョイスがありました。結局近大で日本語のコースを選んで、それで夕方はプレーしながら、朝から晩まで授業を受けて、外国人用のコースで日本の法律、文化、日本語を2年間勉強しました。その2年が終わって、東京にあるジャパンエナジーのスタッフに入って、通訳とアシスタントコーチを選手兼任でやって、そこからナイキ、丸紅、ボッシュ……。その間にスイス銀行とか、他の仕事もやっていました。妻がドイツ人なので2002年に子供3人と妻でドイツに行って、今は子供が5人います。それで16,7年ぶりにひとりで日本に戻って、千葉ジェッツのチャレンジをしに来ました」

 こちらで補足をすると、彼は1992-93シーズンから95-96シーズンまでジャパンエナジーグリフィンズの選手として登録されている。本来のポジションはPGだが、チーム事情でSF/PFで起用される展開が多かった。また当時は外国籍選手のオン・ザ・コート(同時起用数)が1枠に制限されていたため、選手としてはそこまで目立った活躍をしていなかったという。ただ2シーズンプレーした丸紅トレーダーズでは、98-99シーズンに1試合平均22.4点でJBL2(2部)の得点王に輝いている。

1997-98シーズンのJBLプログラム。オフの出没地に「洗足池」を挙げている。 【著者提供】

 そしてパトリックは1999年から2002年まで、ボッシュブルーウィンズ(99-00シーズンはゼクセル)のコーチを務めた。なお当時は実業団チームの廃部ラッシュが起こっていた時期で、ジャパンエナジーは98年、丸紅は99年、ボッシュは02年に活動を休止している。彼はそんな日本バスケの暗黒時代を経験している。

 パトリックは2005−06シーズンのみ日本に戻り、トヨタ自動車(現アルバルク東京)をJBLスーパーリーグの優勝に導いている。荒尾岳はパトリックが「青学から(トヨタに)リクルートした」選手で、ジェッツで17年ぶりに再会することになった。チームの大黒柱である富樫勇樹も高校時代のコーチとの関係で「渡米する前から知っている」という。

2001-02シーズンのJBLスーパーリーグではボッシュの指揮を執った。 【筆者提供】

“ジェッツの前身”でもプレー

 実はジェッツとも25年以上前の“縁”がある。1970年代に千葉県立安房高バスケ部OBが結成した「ピアスアロー」というクラブチームがあった。当時の日本リーグ(JBL)は公式戦の数が少なく、例えば1995-96シーズンのJBLはレギュラーシーズン16試合しかない。そんな牧歌的な環境の中で、選手は当たり前のように“外”でもプレーをしていた。

 当時の記録を見るとトム・ホーバスを筆頭に、錚々たる顔ぶれがピアスアローでプレーしている。2022年現在で日本協会の要職を務める人物、BリーグのGMを務める人物もチームの活動に参加していた。パトリックもこのチームで、1992年から4シーズンに渡ってプレーしていた。

 90年代前半は豊島区リーグに参加していたピアスアローだが、97年に活動を一旦休止し、その後「千葉ピアスアローバジャーズ」「千葉エクスドリームス」と名を変えて命脈をつないでいた。そしてエクスドリームスの選手やスタッフは、多くが2011年に発足したジェッツへと合流している。例えば現在ユースのGMを務める神作大介は、バジャーズとエクスドリームス時代を知るスタッフだ。パトリックはそんな「ジェッツの源流」でプレーしていた。

 当時と比較した日本バスケの変化について問われたパトリックは、こう口にしていた。

「ファンの注目度が上がり、プロフェッショナリズムも浸透しています。千葉ジェッツのファンは熱狂的で、満席の試合もあります。実業団時代には起こり得ないことだったので、驚きました。ただ日本代表も含めて、まだまだ進化していかなければいけない。特に強度はヨーロッパに比べてギャップがあるので、そこを埋めるようにしたい」

 パトリックは現在54歳の働き盛りで、決して“過去の人”ではない。日本とドイツの実績を見れば、コーチとしての手腕は既に証明されている。ジェッツのカルチャーと合うかどうかは不確定要素だし、日本語が堪能だからコーチとして有能というわけではない。とはいえ彼の再来日には「来るべき人材が戻ってきた」という納得感があり、コートで何を表現してくれるかが今から楽しみだ。

田村征也代表(左)、ジョン・パトリックHC(中央)、池内勇太GM(右) 【大島和人】

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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