トライアウトを“計6回”受験した古木克明 挑戦の末に辿り着いた「楽しさ」と「覚悟」

三和直樹

松坂大輔の外れ1位で横浜に入団。世代を代表する長距離砲として早くから期待された古木(写真左) 【写真は共同】

 豊田大谷高の主砲として甲子園を沸かせたスラッガー、古木克明。ドラフト1位で横浜に入団し、2003年にはシーズン22本塁打をマーク。その後、オリックスでもプレーした男は、2009年に戦力外通告を受けた後、格闘家への転向、野球再挑戦からトライアウト受験、さらに現役引退後の起業と、独自の道を歩んでいる。その過程では2度にわたってTBSテレビの年末番組「プロ野球戦力外通告」でも取り上げられた彼がチャレンジを続ける中で見つけたものとは——。

解説者として見たトライアウト

 かつて、松坂世代No.1スラッガーと呼ばれ、ベイスターズの未来を背負った男の視線は今秋、12球団合同トライアウトの選手たちに向けられていた。インターネット動画配信サービス「Paravi」で行われた中継の解説を担当。かつての“自分”を、特別な感情で見ていた。

「緊張感はあったと思います。僕がトライアウトを受けていた頃は年に2回の開催でしたし、個人が何回受験しても良かった。そういう意味で、選手たちには『この1回に賭ける』という気持ちが強かった。ただ、受験する人数が今年は少なかったですし、コロナ禍の中でスタンドに一般のファンがいなかったことの寂しさはありましたね」

 2007年オフにトレードで横浜からオリックスに移籍した後、1軍出場9試合で戦力外通告を受けた2009年、総合格闘家として2試合を戦った後に球界復帰を宣言した2011年、諦めることなく練習を続けた末に迎えた2012年。古木は年に2度ずつの計6回、トライアウトを受験した。2015年からは年に1度の開催、2019年からは同一選手の参加回数が「最大2回」に設定されたため、今後、その規定が再変更しない限り、古木に肩を並べる選手は2度と現れない。飽くなき挑戦を続けた男は、ここ数年で参加人数が半数近く減少したトライアウトの“現実”にも少し、寂しさを感じている。

「昔から『もうすでに獲る選手は決まっている』だったり、『(その年の)2回目のトライアウトにスカウトは来ていない』っていう話は、選手の耳にも入ってきましたけど、それでも僕はチャレンジするしかなかった。今の選手たちは、トライアウトの現実というものが見えているのかなと思いますけど、それが挑戦しない理由にはならない。考え方がドライだなと思いますね」

再挑戦の理由と原動力

自身が立ち上げた会社の運営を行いつつ現在は子どもたちへの野球指導などにも取り組む古木 【写真:本人提供】

古木は2度、現役を引退している。

「1度目に引退した時は、野球がもう嫌で嫌で仕方がなかった。野球の“や”の字も聞きたくないぐらい嫌いになっていた。当時、『野球に未練はない』って言っていたと思いますけど、それが本心でした」

 高校No.1スラッガーとしてドラフト1位で入団し、プロ5年目の2003年に打率.208ながら22本塁打を放ったが、翌年以降は「荒さ」の方が目立ち、三振に倒れ、守備でエラーを犯すたびにファンの厳しい声に晒された。見返そうと黙々とバットを振り続けたが、結果が出ない。怪我もあった。コーチともぶつかり、野球に背を向けた。新たな挑戦。格闘技には本気で挑んだ。だが、野球とは別の世界に入って、気付いたことがあった。

「実際に野球から離れてみてわかったことは、自分の考え方のすべて野球基準だったということ。そして、野球が好きなんだということですね。その気持ちに素直になってみようと思った」

球界再挑戦を決めた後は、周囲からどう思われようとも自らの信念を貫き、再びユニフォームを着てグラウンドに立つため、トライアウトを受け続けた。

「本当、よくやったなと思います(苦笑)。NPBから声がかかることはないっていうのはわかっていたし、何のためにやっているのかなって、葛藤したこともあった。でもいろんな方の協力があって野球を練習することができて、その方々に対して恩返しがしたかった」

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著者プロフィール

1979年1月1日生まれ。大阪府出身。学生時代からサッカー&近鉄ファン一筋。大学卒業後、スポーツ紙記者として、野球、サッカーを中心に、ラグビー、マラソンなど様々な競技を取材。野球専門誌『Baseball Times』の編集兼ライターを経て、現在はフリーランスとして、プロ野球、高校野球、サッカーなど幅広く執筆している。

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