王道歩む鹿島の戦術、強みは凡事徹底【未来へのキセキ-EPISODE 4】
ジーコを擁したプロ化元年の基本布陣は4-3-1-2
Jリーグ初年度の93年は、トップ下にジーコ(10番)が入り、本田泰人(6番)、石井正忠、サントスらが後方からサポート 【(c)J.LEAGUE】
それこそ、鹿島アントラーズの誇るブランドイメージだろう。Jリーグ制覇が通算8回。1993年のプロ化以降、ほぼ4年に一度、王座に就いてきた計算になる。
常勝の秘密はしかし、時代の最先端をゆくような革新にあったわけではない。むしろ、当たり前のことを当たり前にやる“凡事徹底”に大きな強みがあった、と言えるかもしれない。
攻守の切り換えで先をゆく。球際で負けない。こぼれ球を拾いまくる。ボールを失ったら、休まず追いかけて取り返す。体を張って敵のシュートを防ぐ。笛が鳴るまで足を止めない――。これらの原則をしかと守り抜き、数多くの勝利をたぐり寄せてきた。
※リンク先は外部サイトの場合があります
鹿島の戦術は実にオーソドックスだ。何しろ、リーグ屈指の人材をそろえ、選手層も厚い。特殊な戦術よりもむしろ、誰もが適応しやすい最大公約数的な布陣や戦術を用いて、各々の武器(特長)を生かせば、十分に勝機がある。事実、そうだった。
90年代、戦術面でロールモデルになったのがブラジルだった。ジーコを擁したプロ化元年(93年)の基本布陣は4-3-1-2。中盤の底に本田泰人、左に石井正忠、右にサントスを並べたトレス・ボランチだ。彼らがトップ下のジーコを手厚く支え、両サイドバックの大胆な攻撃参加を促す幹となった。当時、ブラジルを含む南米諸国で盛んに活用されており、91年のコパ・アメリカを制したアルゼンチンの布陣もこれだった。
鹿島が初のリーグ制覇を成し遂げた96年のモデルは、その2年前のアメリカ・ワールドカップ(W杯)で優勝したセレソン(ブラジル代表)だ。基本布陣は4-4-2。それも中盤の4人を横一列に並べた英国式のフラット型ではなく、左右のMFが中に絞って、ドイス・ボランチの手前に並ぶスクエア型だった。
同じ布陣(4-4-2)の相手を出し抜く工夫もあった。ボランチの1人が最後尾に落ちて2人のセンターバックと数の優位(3対2)を維持しながらパス回しの起点となり、両サイドバックを高い位置へ押し上げる。つまりは4-4-2から3-1-4-2への可変式でもあった。
当時の鹿島にジョルジーニョとレオナルドという理想の助っ人がいたのも大きい。何しろ、94年W杯の優勝メンバーだ。歴代のブラジル人監督の下、このセレソン式が脈々と受け継がれ、98年に二度目の優勝、2000年に史上初の3冠(リーグ、ナビスコカップ、天皇杯)、そして2001年に初のリーグ連覇を成し遂げる。鹿島が常勝軍団としてのブランドを確立したのもこの頃だ。
さらに、00年代後半には空前のリーグ3連覇をやってのける。オズワルド・オリヴェイラを指揮官に据えた当時の鹿島には伝統のセレソン式のみならず、したたかに勝ちを拾っていくイタリア風味(カルチョ式)がほどよくブレンドされていた。いや、トニーニョ・セレーゾ監督が率いた00年あたりから、すでにそうだった。
3連覇の始まりは07年だが、当時のチームはイタリアの名将マルチェロ・リッピが率いた時代のユベントスやアズーリ(イタリア代表=06年ドイツW杯王者)とよく似ている。ハードワークの重要性が叫ばれた時代。その流れに乗る世界標準型のチームでもあった。
事実、プレッシングの掛け合いに強く、オリヴェイラの采配を含め、僅差の勝負をモノにする選択肢が豊富にあった。最大の強みは堅守速攻だが、それ一辺倒ではなかったあたりがミソだ。必要なら細かくパスをつなぎ、時には総攻撃まで仕掛ける余白を持っていた。
10年代もチームの色合いは微妙に違っても、基本的には継続路線。クラブのOBでもある石井が監督を務めた16年に通算8回目のリーグ優勝を果たし、同年暮れに日本で開催されたFIFAクラブW杯ではアジア勢で初めて決勝に駒を進めた。それから2年後の18年には大岩剛監督の下でAFCチャンピオンズリーグを制し、宿願でもあったタイトルを手中に収める。