連載:僕しか知らない星野仙一

江本孟紀が星野仙一と交わした最後の会話 今、あらためて語る意味とは?

株式会社カンゼン

2018年3月19日、星野仙一氏の「お別れの会」には、野球界だけでなく、さまざまな業界から多くの参列者が訪れた 【写真は共同】

 星野さんの突然の死に、僕は驚いた。いや、正確に言えば、僕だけではない。星野さんの周囲の関係者、もっと言えばプロ野球ファン、国民だって驚いたに違いない。

 正直、星野さんとパーティーでの会話が最後になるなんて、思いもしなかった。口では弱気なことを言っていたが、その表情からは、「もうひと花咲かせてやるわ」という闘志が、フツフツと湧いているように見えたからだ。

 だが、70歳という年齢を考えたら、まだまだだと思う反面、「そろそろ準備せないかんこともあるだろうなあ……」という心境にも陥るものだ。とくに大病を患ったときには、心の弱い部分が自然と顔をのぞかせる。
 あの星野さんであっても病が進むにつれ、「もういよいよかな」と、観念する思いも出てきたのではないだろうか。

 間近に迫る「死」というものに対して、星野さんはどう向き合っていたのだろう?
 ひょっとしたら、「オレはこれしきの病気に打ち克ってやるぞ」と、逆に燃えていたのかもしれない─―。

 言わずもがな、星野さんは投手出身である。投手はナルシスト的な性格の持ち主が多い。ナルシストとは言い換えれば、うぬぼれや、自信家、ええ格好しいである。人によってはそれが気に障る、あるいは苦手だという人もいるかもしれない。

 投手は「自分が投げなければ始まらない」という高いプライドを持つのと同時に、打たれたときには、「自分のせいだ」と責任のすべてを被る。間違っても、「あいつのせいで負けた」などとは、決して口に出したりしない。そんなことをしたって、言い訳にしか聞こえず、自分自身がみじめになることをわかっているのだ。

 だから病気になっても、それを口外することはない。「僕はガンです」と告白して世間の同情を買うようなことは、プライドが許さない。それが投手という生き物なのだ。

 僕たち団塊の世代に生まれた元プロ野球選手は、多くのライバルと競い合い、己の技術を高めあってきた。1つ上の山本浩二さん、同世代の平松政次、福本豊、1つ下の江夏豊、山田久志らのように、名球会に入る活躍した選手もいるなかで、僕も24歳のときにドラフト外でプロの世界に入ってからの11年間で、113の勝ち星を積み重ねられた。

 けれども、選手としてはそれなりに成功を収めても、監督としてはさほど成功していない。いや、正確には監督のお声がかかったのは、山本さんや田淵幸一さん、山田、大矢明彦ら、ごく一部の人間だけだ。
 そう考えると、僕らの世代で監督として成功したのは、星野さんだけなのかもしれない。通算勝利数の「1181」という数字は、川上哲治さんの1066勝、長嶋茂雄さんの1034勝を上回る。この点は素晴らしいの一言に尽きる。

 だが、星野さんの監督としての能力はどうだったのか。いったい何が優れていたのかを具体的に語られることはほとんどない。星野さんを表す言葉として、「闘将」「鉄拳制裁」のイメージが強すぎて、それ以外の言葉は浮かんでこない、なんていう人もいるはずだ。

 思えば法大に入った18歳のときから星野さんを知っているのだから、かれこれ50年以上になる。僕の両親は、僕が60歳になった頃から、相次いで亡くなったのだから、両親の次に長い付き合いとなる。

 星野さんが球界に遺したものとはいったい何だったのか。これまでの生きざまを紐解きながら、検証していくことで見えてくるものがあるはずだ。それをみなさんにも知っていただければ幸いである。

(文:江本孟紀)

※本記事は書籍『僕しか知らない星野仙一』(株式会社カンゼン)からの転載です。掲載内容は発行日(2018年3月26日)当時のものです。

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