キヅールを生み出した宮野社長の背景 Jリーグ新時代 令和の社長像 岩手編

宇都宮徹壱

本気でJリーガーを目指していた宮野社長

2005年当時のグルージャ盛岡。「東北3番目のJクラブ」を目指すも、経営難でたびたび解散の危機に遭った 【宇都宮徹壱】

 宮野は1985年3月25日、盛岡市に生まれた。今年1月10日、岩手の社長就任が発表された時は「Jクラブ最年少社長」と話題になった。ところが4月26日、J2のFC琉球の社長に31歳の三上昴(87年9月22日生まれ)が就任し、わずか3カ月で宮野は「Jクラブ最年少社長」の座を明け渡すこととなる。余談ながら、現時点では平成生まれのJクラブ社長は誕生していないが、いずれは時間の問題であろう。

 宮野にとってサッカーは、幼少の頃から身近にあった。「父親がサッカーをしていましたし、地元の本宮は小笠原満男さんを輩出する等、盛岡市内でもサッカーが盛んな地域です」。盛岡第一高時代には、技巧派のMFとしてチームを牽引。一高といえば県内随一の進学校で知られているが、宮野の在学中は県のベスト4に入るくらい強かったそうだ。

「2年のインターハイ予選の準決勝では、盛商(盛岡商業)と対戦して1‐4くらいで負けたと思うんですよね。いくら強かったといっても、やっぱり盛商にはかなわなかった。その時に10番を付けていたのが、同学年で今はウチのフロントにいる松田賢太。その次に10番を受け継いだのが、1つ下で鹿島アントラーズにいる山本脩斗です。松田とはその後、一緒にキヅールを作ることになるので、不思議な縁ですよね(笑)」

 高校時代の宮野は、本気でプロフットボーラーになることを目指していたという。それも、欧州でプレーすることをリアルに考えて、中学時代からイタリア語を学んでいた。大学選びも、当時の関東1部と2部で「唯一、サッカー推薦がなかった」という理由で慶応を選択。「弁護士になりたいとかじゃなくて、慶応だったら4年でレギュラーになれるんじゃないかと思って」と当人は笑う。ところが「気軽にバックパック旅行ができないことが分かって」体育会サッカー部はすぐに辞めてしまったそうだ。

 さて、宮野が大学進学のため上京したのは、03年のこと。この年の12月、地元の盛岡ではNPO法人「Jリーグチームを盛岡に作る会」が発足する。そして当時、東北社会人リーグ2部で活動していたヴィラノーバ盛岡を改組して、「盛岡からJリーグを目指すクラブ」グルージャ盛岡が誕生した。実は宮野は高校時代、東北1部の盛岡ゼブラに練習参加していた経験もある。それから16年後、地元のクラブの社長になるとは、もちろん夢にも思わなかったが。

クラブを救った「パルコホーム」の存在

パルコホールディングス代表取締役会長の遠藤渡。地域リーグ時代の07年からスポンサーとして岩手を支え続けた 【宇都宮徹壱】

 前述したとおり、私が初めてグルージャ盛岡を取材したのは05年。東北リーグ1部に昇格した最初のシーズンだった。この当時、東北のJクラブはベガルタ仙台とモンテディオ山形の2クラブのみ(いずれも当時J2)。福島県の郡山市やいわき市、あるいは秋田市より人口規模は少ないものの、盛岡は十分にJクラブを持ち得る地方都市と目されていた。一方でこの頃は、アルビレックス新潟が地方クラブの成功例として注目されていた時代。「わが街もサッカーで新潟のように」と、当然のように語られる空気感があった。

 現地で取材した記憶を手繰り寄せると、クラブを運営していたNPO団体は良くも悪くものんびりした人たちがそろっていて、スポーツビジネスというよりも商工会の寄り合いのような雰囲気であった。そして取材直後に、経営をめぐる内部対立により全理事が辞任。約900万円の未払い金も明るみに出て裁判沙汰にもなった。09年にはJリーグ昇格を視野に、現在の株式会社いわてアスリートクラブが設立。ただし株式会社化したといっても、ガバナンスそのものはNPO法人時代とほとんど変わりはなかった。

 その間、特筆すべき出来事となったのは、07年に地元の優良企業として知られる「パルコホーム」がスポンサーになったことだ。当時の岩手はまだ東北リーグ。J3に昇格するのは7年後の話である。その間には言うまでもなく、未曾有の大震災もあった。「パルコさんのサポートがなければ、今のグルージャはあり得なかった」とサポーターが語るのも、決して大げさな話ではない。ではスポンサー側には、どんな思惑があったのだろうか。語ってくれたのは、パルコホールディングス代表取締役会長の遠藤渡である。

「特にこれといった理由はないですね。付き合いのある広告代理店が持ってきた話で、それまでも胸スポンサーが住宅関連だったという流れでした。グルージャの存在は知っていましたが、私自身はそれまでサッカーにあまり関心はなかったし、仕事が忙しかったから試合も5、6年くらい見ていませんでしたね(苦笑)。それでも地域決勝で優勝した時(13年)に、新潟の会場で選手に胴上げされたのは感激しましたよ」

 遠藤が語るとおり、13年の地域決勝で見事に優勝した岩手は、9シーズン目でようやく東北1部を卒業することとなった。この地域決勝はJFLに昇格するための大会だが、おりしも翌14年にはJ3リーグが開幕することがすでに決定。事実上の「飛び級」という形で、岩手はJFLを経験することなくJ3のオリジナル11に名を連ねることとなる。だが、最初のシーズンこそ5位でフィニッシュしたが、以降はずっと2桁順位。次第に地元の熱量が下がる中で起こったのが、2年連続の赤字計上と前副社長の横領事件であった。

<後編につづく。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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