ベテラン記者が選ぶ、五輪の名シーン 歴史を作った日本選手の戦いを振り返る

折山淑美

2004年アテネ 女子マラソン:“本当の強さ”見せた全員入賞

優勝した野口(右から3人目)、5位・土佐(左端)、7位の坂本(中央)と3人全員が入賞。アテネ五輪女子マラソンで日本勢は躍動した 【写真は共同】

 92年バルセロナ五輪と96年アトランタ五輪では有森裕子が銀メダルと銅メダルを、00年シドニー五輪では高橋尚子が金メダルを獲得した女子マラソン。日本が“本当の強さ”を発揮したのは04年アテネ五輪だった。出場したのは03年世界選手権2位で代表を決めた野口みずきと01年世界選手権銀メダリストで、安定感のある土佐礼子。そして04年1月の大阪国際マラソンでは30キロからの5キロを15分47秒の驚異的なラップタイムで優勝した坂本直子だった。

 コースはマラトンをスタートして、第1回近代五輪の会場となったパナシナイコ競技場にゴールする、中盤に長い上り坂があって32キロからは一気に下るという厳しいもの。スタート時の気温は35度で、強い西日が強烈な厳しい条件だった。レースは最初の5キロを17分09秒で入り、上り坂になってくる10キロからは17分台後半、きつい上りの20〜25キロは18分台に落ちる展開だった。

 その中で完璧な作戦を実行したのは野口だった。25キロから飛び出して16分57秒にあげ、その間の5キロで2位に37秒差をつける。下りはストライドが長い外国選手が有利と、上りで勝負したのだ。40キロではヌデレバ(ケニア)に12秒差まで追い上げられたが、その差を維持してトップで最後まで走り切り、日本の2大会連続優勝を決めた。

 さらにそれだけではなく、「あそこでスパートされると思っていなかった」という土佐も終盤は粘って5位でゴール。野口と同じように25キロで出る仕掛ける予定だった坂本は、その前のアップダウンと硬い路面で脚を使ってしまったと勝負することができなかったものの7位入賞。過酷な条件を味方にした日本女子マラソンが層の厚さで、燦然(さんぜん)と輝いた時だった。

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2016年リオ 卓球・水谷隼:“功労賞”のメダル獲得

日本男子卓球の新たな歴史を作り続けてきた水谷隼の強い想いが、個人と団体の2つのメダルを引き寄せた 【写真:ロイター/アフロ】

 04年アテネ五輪惨敗を受けての若返り化の中で、05年の世界選手権に15歳10カ月で男子史上最年少代表(当時)に選ばれた水谷隼。以来、ドイツのブンデスリーガでプレーするなど新たな試みをして日本男子をけん引し、これまで全日本選手権男子シングルスでは史上最多の優勝10回を記録している。

 そんな彼が08年北京、12年ロンドン、16年リオデジャネイロと出場した五輪の中で、最も輝いたのはリオだった。シングルス準決勝では世界ランキング1位の馬龍(中国)に最初の3ゲームをいずれも5対11で取られて王手をかけられたが、そこで「やるしかない」と気持ちを切り替え、「第4ゲームを取れば勝てるかもしれないという感覚があった」と序盤で大きくリード。8対7まで迫られたが、そこから3連続ポイントを連取し第4ゲームを奪う。第5ゲームも序盤の劣勢を跳ね返して12対10で取って粘った。

 第6ゲームは取られて敗戦となったが、その粘りが彼を鼓舞させたのだろう。3位決定戦では世界選手権で3個のメダルを獲得しているサムソノフ(ベラルーシ)を4対1で破り、五輪シングルス日本初のメダルを獲得。さらにその勢いで丹羽孝希、吉村真晴と組んだ団体でも銀メダルを獲得した。

 エースとして日本男子卓球の新たな歴史を作り続けてきた彼の強い想いが手にさせた、功労賞とも言えるメダルだった。

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著者プロフィール

1953年1月26日長野県生まれ。神奈川大学工学部卒業後、『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ』『Number』『Sportiva』ほかで活躍中の「アマチュアスポーツ」専門ライター。著書『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『高橋尚子 金メダルへの絆』(構成/日本文芸社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)ほか多数。

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