連載:キズナ〜選手と大切な人との物語〜

湘南ベルマーレ梅崎司の壮絶な人生 一緒に乗り越えたおかんと僕の物語

原田大輔

サッカーを続けさせたのは笑顔になれたから

梅崎少年(左から2人目)は自分とおかんの笑顔のためにサッカーを続けた 【写真提供:梅崎司】

 それは文字にするのもはばかられる内容だった。原因や理由という言葉すら使いたくないが、梅崎がサッカーをやっていることもそのひとつではあった。なのになぜ、庭子さんは梅崎のサッカーを守り続けたのだろうか。

「私にとっても司がサッカーをしているところを見るのが楽しかったんです。それ以外のときはずっと家にいましたけど、司がサッカーに行くときだけは私も外に出られましたから。そのときだけ、私は自由になれたんです。何より司が楽しそうにサッカーをしている姿を見たら、私も嫌なことを忘れられたんですよね。家族が唯一、笑顔になれるのがサッカーだったんです。もしかしたら……私自身もサッカーに逃げていたのかもしれませんね」

 親子はサッカーでつながっていた。梅崎がサッカーをしている瞬間だけが、心の底から親子は笑顔になれた。だから、梅崎も言う。

「僕にとってもサッカーが逃げ場だったんですよね。唯一、こう、忘れられる瞬間というか、すべてを。無になって純粋に楽しむことができる。何より、おかんが楽しそうだった。活躍すれば笑ってくれるし、喜んでくれる。それが子どもながらにうれしくって」

 梅崎にとって母親こそが一番の理解者だった。つまずいたとき、くじけそうになったとき、いつも手を差し伸べてくれたのが庭子さんだった。

「小学校高学年のチームでプレーするようになったときに、小さかったこともあって試合をするのが怖くなってしまったんです。それで家に帰って、母親に怖いという話をしたら、『じゃあ、体力をつけるために走ろう』って言われて。田んぼ道をおかんも一緒に走ってくれたんですよ。それからは、中学生のころまで、何かあれば一緒に走ってくれて。今も悩んだときには走るんですけど、そこが僕の原点なんです。いつもおかんは話を聞いてくれて、自分自身もおかんに話すことで楽になりました。いつも前向きな言葉を掛けてくれて、僕がポジティブになれるように気持ちを持っていってくれたんですよね」

 庭子さんに聞けば、「だって、私には走るくらいしかできなかったですから」と笑う。その表情はまぶしかった。

震えながら父親の暴力を止め、発した言葉が…

2005年、大分ユースからトップチームに昇格。家を飛び出し、夢をかなえた 【写真:アフロスポーツ】

 梅崎には4つ年の離れた弟もいたが、父親の暴力についてだけは、3人の間でもタブーだった。そこに触れれば、サッカーも、生活も、すべてが壊れてしまうかもしれない危うさがあった。

 ただ、父親の暴力はエスカレートしていった。中学生になり成長した梅崎自身も、いつまでも見て見ぬふりをしているわけにはいかないと思い始めていた。そんな中学3年生のときに事件は起こった。

 ある日、また母親が殴られていた。いつものように陰から見ていたが、いつにも増して父親の衝動が激しかった。このままでは母親の命が危ないかもしれない――。とっさに梅崎は叫んでいた。

「親父、やめろ!」

 初めて父親の暴力を止めようと行動した。怖かったし、震えてもいた。それでも――「自分が母親を守らなければいけない」。その思いが、梅崎に一歩を踏み出させた。険しい表情を見せながら梅崎が回想する。

「僕自身も年齢を重ねてきて、どこかに、もう逃げたくないという思いもあったんです。ずっとおかんを助けたいという気持ちはあったけど、それでもやっぱり、ずっと勇気が出せなくて。でも、あのときはなぜか、僕が立ち向かわなければ、おかんを助けなければと思って止めに入ったんですよね」

 父親が出て行き、母親を助け起こして逃げるように家の2階に上がると、梅崎はこう言った。

「おかん、もう、この家を出て行こうよ」

 庭子さんはそのひと言で、目の前が開けたという。

「(それまで離婚しなかったのは)、私の父親に、梅崎家には離婚した人間がいないということを言われていたことも引っ掛かっていたんですよね。私自身も育ててくれた両親には感謝していましたから。もうひとつは、やっぱり生活ですよね。ふたりの子どもを育てていくのは大変ですし、何より、あれだけ司がのめり込んでいる好きなことをやめさせるわけにはいかないと思っていました。それと、一緒にいると、精神的にも支配されてしまうところもあるんです。でも、あのとき、それまでは誰もが触れなかったことを、司が言ってくれて、『なんだ、私、ここから出ていってもよかったんだ』って思えたんです」

 それから梅崎と庭子さん、そして弟の3人は「Xデー」を決めると、家から飛び出した。その直前に梅崎は、大分トリニータユースのセレクションを受けていたが、そのときも早朝にこっそりと家を抜け出して、長崎から大分までテストを受けに行ったという。

 大分のユースに合格した梅崎は、「自分が家を出ようと言ったのに、サッカーのことを考えて、大分で生活するなんて申し訳なかった」と話す。だが、庭子さんからしてみれば「あのひと言がなければ、どうなっていたか分からない」と、いまだに息子のひと言に感謝している。

 大分ユースに加入し、親元を離れて暮らすようになった梅崎は、「お金のありがたみや生活の大変さが一気に分かった」と話す。だから、父親のもとから逃げ出した直後に、限られたお金を工面して、買ってくれたスニーカーを高校3年間、大事に履き続けた。中学2年生のときに買ってもらったリュックもずっと使い続けた。庭子さんは「そのリュックは今も取ってあるんですよ」と言うと、思わず涙ぐんだ。

「家を出たときに、司がボソッと『やっとこれで自由になれたね』って言ってくれたことが今でも忘れられないんですよね……。もしかしたら、私のように苦しんでいる人はたくさんいるのかもしれない。私も不安はいっぱいありましたけど、一歩を踏み出さなければきっと、何も起こらない。別れられない理由は人それぞれあって、もしかしたら愛だったり、子どものためかもしれない。でも、ただ考えるのではなく、一歩を踏み出すことが大事だと、私は息子から教わったんです。今は当時よりも相談する場所も、かくまってくれる施設も増えたと思います。何にも怯えることなく生活できるというのは、本当に幸せなことなんですよね」

 そして梅崎は2005年、大分で夢だったプロサッカー選手になった。19歳だった2007年には海外挑戦を果たし、2008年には浦和レッズへ移籍もした。

 子どものころから、ずっと思い続けていた「お母さんを楽にさせたい」という目標もかないつつあったが、ここで話は終わらない――。家族のキズナはほつれていく。庭子さんが言う。

「司から別れた旦那と同じ匂いがしたんです」

<後編に続く>

(企画構成:SCエディトリアル)

【島田香】

梅崎司(うめさき・つかさ)
1987年2月23日生まれ。長崎県諫早市出身。湘南ベルマーレ所属。MF/背番号7。168センチ・68キロ。中学卒業と同時に大分トリニータのユースに加入し、2005年にトップチーム昇格。若くから活躍し、2006年には日本代表デビュー。2007年にはフランスのグルノーブルへ期限付き移籍し、欧州に挑戦した。大分に復帰した後、2008年には浦和レッズに移籍。度重なるケガに苦しんだが、そのたびに復活を遂げてピッチに戻ってきた。そして2018年、10年間在籍した浦和から湘南ベルマーレへと移籍。湘南では主に2列目を担い、ルヴァンカップ優勝に貢献した。2017年12月には『15歳 サッカーで生きると誓った日』(東邦出版)を上梓。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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